第10回 state of the artと言える技術

  “The state of the art”は,私の好きな言葉である.最先端とか究極を意味する慣用句で,技術系の形容詞句としては最上級のものといえる.今回は,state of the artといえる技術の話をしてみたい.

その一 Cray-1 XMPの基板

 昨年,アメリカで開催された会議でお会いした方から,Cray-1 XMPのジャンク基板を譲ってもらった.もう10年以上も前に作られたものだから,今となっては最先端ではないのだが,これを見てすごく新鮮な感動を覚えたのである.

 一つは,その異常な重さである.プリント基板という先入観があったので,ひょいと持とうとして思わず落としそうになってしまった.それくらいに重い.基板の中に放熱用の分厚い銅版が入っていると見た.しかし,それはあまり本質的なことではない.本当に感動したのは,そのプリントパターンなのである.配線をわざと迂回させたり,また場所によっては故意に折り返して蛇行させてある.

 速度が命といえるCrayだから,見るからに最短経路というパターンをCADで自動設計するというぐらいならありそうな気もするが,明らかにぐねぐねと回りくねった,素人でもしないようなヘタクソなパターンが描いてある.

 超高速計算機を実現するには,配線の遅延があるので全体を小さく作らなければならないという話はよく聞く.光速は1nsで30cmしか進めないから,1GHzのクロックだと全体を30cm四方の箱に入れなければならないという話を,私も講義で言った記憶がある.

 というのに,なぜCray-1のプリントパターンにはこんなに無駄があるのだろうか?

 初期のCrayのクロックは,7.5nsだった.そこで,普通ならば7.5nsで何m信号が伝わるかを考えがちだが,それはCrayのアーキテクチャではあまり意味がないのである.パイプラインアーキテクチャでは,個々の信号の遅延時間はさておき,直列につながる演算ユニットの直前で,すべての信号がそろって到着することが重要になる.そのために,わざと信号が遅れるように迂回パターンを描いてあるらしい.さまざまなゲートをくぐってきた信号が最終的にたどり着く先で変化タイミングをそろえるところに,Crayの美学があるのだろう.

 私は,こんなところにstate of the artを感じてしまう.

その二 PlayStation2のスペック

 先だってソニーの次世代ゲーム機,PS2のスペックが公開された.そして,家庭用ゲームマシンとは思えない豪快な性能に驚かされた.一番インパクトがあったのはCPUのスペックである.トランジスタの数が1千万個を超えており,演算性能も公称6.2GFLOPSとスーパーコンピュータ並である.

 事情通に聞くと,それにはMPEG-2のデコーダも含まれているとか,整数性能はMIPSのR5000並みだとかいろいろ不満もあるようだが,ともかく6.2GFLOPSのパフォーマンスがあることは間違いないのだろう.しかし,これがどれくらい凄いのかは,今一つ実感が沸かないのではないかと思う.

 そこで,ちょっと簡単な計算をしてみることにした.非常に荒っぽい計算だが,約1千万個のトランジスタのうち,半数のトランジスタが規格とされる300MHzでスイッチングを行うと考えてみる.Vccを3Vとすると,15Wは5Aの消費電流になる.

 それ全部で,5百万個のトランジスタをスイッチさせるという荒っぽい仮定をすると,1スイッチあたりでは1μAの電流が流れていることになる.

 さて,1μAの電流が流れているということは,1秒間に何個の電子が流れることになるのだろうか? 理科年表によると,1Aの定義は1秒間に1クーロンの電荷が流れること,そして電子1個の電荷は1.6×10?19クーロンであると書かれている.この物理定数を使って計算すると,1個のスイッチは1秒間に約6.25×1012個の電子を流していることになる.そして,PS2のCPUでは,それが毎秒3億回切り替わっていることになる.

 ということは,1回のスイッチではたった2万個ほどの電子しか関与していない計算になる.これはもう数えられる程度の電子の個数である.本当に電流が電子という粒子の流れだったら,この程度の電子数で動いている回路は電圧が量子化されてしまい,電圧変化が0.1mV単位の階段状になってしまう.

 PS2のCPUは,そんなレベルで動くといっているのである.本当にこんな状態で動いているのなら,これはstate of the art以外の何物でもない.

最近は,ソフトのおかげで「物」のイメージが沸かない

 最近,Pentiumのクロックは無限に上がっていきそうに思えるし,メモリの容量も3年くらいで4倍になるように見える.しかし,「物」,つまりハードウェアは物理現象の上に成り立っているわけで,理論限界というものが付きまとうはずである.技術の世界のstate of the artは,そういった物理限界に限りなく接近したときに感じるものと言えるのではないだろうか.

 だからというわけではないが,ソフトウェアについては何をやってもstate of the artを感じないのである.たしかに,ソフトも複雑なのだが,コピー可能な複雑さなのである.ぎりぎりのところで成り立つハードウェア技術というのは,コピーすらできない,真性の芸術なのだと思う.

山本 強・北海道大学



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