第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ― u-Japan構想
e-Japanの賞味期限が2005年で切れることを見越してか 注 ,昨年からIT分野の企画書にはユビキタスやu-Japanといったキーワードが頻出するようになっている.e-Japanは,言うなれば「日本全国ブロードバンド構想」のようなシンプルな目標だから誤解も少なかった.しかしu-Japanと言われても,それで何ができるのか,単純な例を示しにくい.ユビキタスのような抽象概念を,それを知らない人たちに説明するときには具体例を見せるというのが常套手段なのだが,これがさらに誤解を招いているように見える.ユビキタスとはICタグであるとか,PDAや携帯電話による情報サービスのことと思っている筋もあるらしい.どこでもコンピュータ,どこでもネットワークというわかったような説明もあるのだが,それだけでいいのかユビキタス,というのが今月のお題である.
注:e-Japan構想のおもな施策は2005年までの計画である(「2005年度までに,全ての公立小中高等学校等が,各学級の授業においてコンピュータを活用できる環境の整備を行えるようにする」など).
Google Satellite ― 網羅された情報サービスの衝撃
インターネット検索大手のGoogle社の米国内サイトでは,開発中の実験サービスを試験公開しているが,この中にGoogle Map(http://maps.google.com/)という地図検索サービスがある.地図サービスは昔からあるので驚かないが,Google MapにはSatelliteモード,つまり地図と完全に重なる衛星写真の検索オプションがある.米国内のすべての地点で衛星写真が検索できるサービスである.ペンタゴンから映画トップガンに出てくる空軍基地まで,本当にそこまで見せていいのかというような画像が見えてしまう.
ここで簡単な計算をしてみよう.Googleの衛星写真サービスの解像度は,都市部の最大拡大時で見ると1画素がほぼ1m×1mに相当するレベルである.米国の国土面積は967万平方kmだから,単純に米国全土を埋めつくすとその画素数は9.67×10 12 画素,約10T画素ということになる.1画素3バイトとしておおよそ30Tバイトになる.郊外は低解像度なのでそれよりは大幅に少ないと思うのだが,そのうちに全領域が最大解像度になっても不思議ではない.これを1秒程度で検索する技術にまず驚かされる.
私がこのサービスを使って見て感動したのは,米国在住の知人の住所を入力して検索したときである.なんと彼の家にマークがついて表示され.建物の大きさもプールの有無もわかってしまう.個人情報保護の観点からいろいろと意見もあるとは思うが,事前に設定されていない個人の住所にすら対応する衛星写真が出てくるという網羅性がこのサービスの真髄なのである.どこか特定の「ある部分」だけ見えるのならばインパクトはほとんど感じられない.「どこの情報も同じくある」という情報の完備性にユビキタスを感じるのである.
ちなみに地球の陸地面積は1億4800万平方kmだから,陸地全部を1mメッシュの衛星写真として画像化するとその画素数は1.48×10 15 画素,ついにぺタの領域に突入する.
サーチ・エンジンに残る歴史
時間軸の網羅性ということでサーチ・エンジンが収集するキャッシュ・コンテンツについて考えてみたい.最近,何かと話題になる日本を含む東アジア地域の歴史認識であるが,いつまでたっても結論に至らないのは歴史に関する情報に網羅性が欠けているからでもある.歴史や考古学の基礎データは偶然に残っていた少数のサンプルであり,もともと欠落が多いし,時として意図的な雑音も入っている.だから解釈が複数出てくるし,どの解釈が真実かを断定できない.
過去の話はさておき,これから先を考えると状況は少し違うと思う.理論的にはインターネット空間に出た情報は網羅的に記録可能だからである.Googleの話ばかりになって恐縮だが,現在の検索エンジンはたんにポインタを記録しているだけではなく,検索されたページの中身そのものもキャッシュに保存している.リンク先の更新に対する保険という見方もあるが,私はインターネット空間のスナップ・ショットの意味が大きいと思う.私の思い込みかもしれないが,大手検索サービスはこれまで収集したインターネット・コンテンツをタイム・スタンプ付きで保存し続けているはずである.その中には,保存されることを意識していない個人のページも含まれているし,整理されていないので逆に過去にさかのぼって情報を再整理できることにもなる.大げさかも知れないが,これはインターネット時空間の網羅的記録でもある.これからの歴史はサーチ・エンジンのキャッシュに残っているという解釈もできるのである.
ユビキタスの真髄は網羅性と完備性にあり
ユビキタスは「どこでも,どれでも,いつでも」という修飾語がついて説明されるが,デモで見せられる例は実際のところ「そこだけ,それだけ,そのときだけ」のものが多い.無限のコストを覚悟すればどこでも,どれでもになるのは明らかだが経済原理がそれを許さないのが現実である.ハードウェアとしてのコンピュータや端末をユビキタスにするのも一つの方向性だが,どこでも,どれでも,いつでもという網羅的なコンテンツ・サービスもユビキタスのもう一つの方向性なのではないかと思うのである.
やまもと・つよし
北海道大学大学院情報科学研究科
メディアネットワーク専攻
情報メディア学講座
|