第57回 年金,e-チケットに見る ディジタル時代の情報原本
2007年5月下旬の大きなニュースとして,年金納付履歴情報が5000万件も確認不能になったという「事件」があった.マスメディアの視点は,あなたの大事な年金が支払われなくなる可能性があるという社会問題ということなのだが,エンジニアの視点から見ると,5000万件というにわかには信じがたいスケールの大きさにニュース性があるのではないだろうか.1件が1個人に対応するのなら,国民の2人に1人の記録が消えたことになるが,さすがにそれはないだろう.1件が個人の1カ月分とすると,10年分で120件となるから,個人レベルでの問題発生確率は100分の1以下に低下するはずである.
年金という,すべての人が関係する重要問題だからこそ,その量的重大性を正確に報道しなければならないと思う.当たり前のことだが,年金データはもともと人間が手で入力したものだから,電子化以前にも間違いや紛失はまれにあったはずである.今回の事件は,紛失件数が異常に多いということだけでなく,年金納付者が自分で納付記録を証明しようがないと言われていることにある.納付記録の原本がないということに問題の本質があるのではないだろうか.
出張で感じるディジタル原本の落とし穴
この問題は年金に限ったことだろうか.年金事件のニュースを聞きながら,この問題に関連する事件が,今来ている出張で2回ほどあったので紹介しよう.
私は今この原稿をバンコクのホテルで書いている.このホテルの予約も完全に電子的に行われていて,予約記録はPDFで出力されたものである.料金は予約サイトのホームページからオンライン決済で払い込み済みということで,安心してカウンタに紙を見せたら,そんな記録はないとあっさり受け取りを拒否された.おまけに現地の旅行代理店の営業時間はとっくに終わっていて確認不能ときた.現実問題としてこういった手違いは外国ではよくあることで,こんなことに驚いていたら出張にならない.これも予約確認の原本が何かという問題に帰着する.PDFで送られた確認書は単なる連絡票に過ぎず,原本性は全くないのである.結局のところ,情報が来るべき道をバックトレースして,どこかで確認が取れればOKとなるわけで,今回も翌日の電話で現地の代理店で確認されて事なきを得た.
原本が電子化されるメリットの一つは,紙の記録を持つ必要がないということである.電子化されることで,どの端末からでも必要な原本にアクセス可能ということになる.今回の航空券はe-チケットで,航空券そのものは発券されていない.もちろん,予約データはプリントできるのだが,せっかくのe-チケットなのだからパスポートだけで何も持っていないという前提で空港に行ったら何が起こるのかを実験してみた.今時はセキュリティ・チェックが厳しく,チェックイン前に手荷物検査があるが,まずここで「航空券を見せてください」と来た.e-チケットを推進する航空会社が航空券を見せろという辺りに,まだシステムがなじんでいないことをうかがわせる.さて,「航空券を見せてください」に対して,一言「e-チケット」と答えた私がどう扱われたかというと,「そうですか,どうぞ」だった.これでは何のために航空券を確認しているのか分からない.一昔前にあった,搭乗口での「お名前は?」による安全確認から全く進化していないことに驚かされる.
とはいえ,情報原本が紙からディジタル・データになったことで結構便利になっていることも事実なわけで,社会はそのリスクを認識して次第になじんでいくのだろう.
ディジタル原本に求められる機能
私が今回の年金事件の報道を見ていて感じるのは,人間を含めた情報システム全体が完璧,無謬であるということが前提に議論されていることの危うさである.人間がシステムに関与するならば,間違いが発生する可能性がゼロであるとは言い切れないはずで,エラーが起こることを前提にしてシステム全体を作る必要がある.年金の件も同じで,人間が犯したエラーを回復する手続きやその根拠となる原本データを残してあれば,時間とコストの問題はあるものの,復活対応は可能になるはずである.年金のように,個人の人生にかかわるような問題であるからこそ,データ入力の元となった原本を残しておかねばならない.
もう一つ,ディジタル原本に求められる機能に,そのアクセス権を持つ人に対して内容を確認する方法が存在するということがある.銀行口座にしろ,航空会社のマイレージ・ポイントにしろ,その内容をオンラインで確認できる機能がある.これによって,情報を発生させている本人が発生時点で変更を確認できることになり,エラーが発生しても早期に発見できることになる.もっとも,これは確認することによって当人に何らかのメリットがあるから頻繁に確認するのであって,そうでない情報,例えば戸籍とか今回の年金などは毎月確認する必然性がないという問題がある.
つまり,アナログ原本から構築されたディジタル原本はその元資料を破棄しないこと,発生時からディジタルであるディジタル原本はその内容をいつでも当人が確認できる方法を提供することが,ディジタル原本の信憑性を確保する最低限の基準なのだと思う.
やまもと・つよし
北海道大学大学院 情報科学研究科
メディアネットワーク専攻
情報メディア学講座
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