水野博之の『技術者十訓』

〜 第九訓 〜

 パラノイアの世界


水野博之(みずの・ひろゆき)
高知工科大学教授


 たしか,インテルのアルドリュー・グローブであったと思うが,「シリコンバレーではパラノイアだけが生き残れる」と言った.パラノイアとはなにか? 辞書を引くと,神経症の一種で,妄想にとりつかれた精神状態であるという.あまりいいことは書いていない.グローブの言いたいことは,「一つのことをとことん追求する点において常人をはるかにしのいでいないと,シリコンバレーでは成功しない」と言っているのである.

 このシリコンバレーの空気はアメリカのなかでも特異なようで,ボストンの住人である友人の1人も,「シリコンバレーはカネの亡者の集まりだからなあ」とのたまったことがある.さらに言葉を継いでいわく,「あそこには,ボストンのように交響楽団も美術館もない.文化の香りのまったくない街だ」と一刀両断であった.シリコンバレーに文化があるかないかは別にして,言わんとしていることはわかるような気がする.そこで質問である.

 みなさんはパラノイアと言われるまで努力する決心がおありですか?


●一生に一度はパラノイア

 この決心がつかないのなら,アントレプレナ(起業家)たることはやめたほうがいいだろう.簡単に決心なんかしないでいただきたい.たとえば,あなたに恋人がいたとしよう.家族があると考えてもよい.パラノイアの周囲の人はたいへんである.よほどの理解者でないと,とてもついてきてはくれないだろう.なにもかも捨てて,一筋に走るのがパラノイアであるから,そのような人を包み込める環境はそうそうない.とすると,あなたの戦いは身近なところから始まる.孤立無援になる.この孤独に耐えられますか?

 わたしの知る限り,成功したアントレプレナの多くは家庭的に幸福な人ではない.この間もこのような例があった.日本でもかなり知られたアントレプレナで,彼の仕事は順調に進み,ようやく美人の奥さんをもらった.仕事は順調であるが,なにしろワンマン経営である.順調であればあるだけ,走り回らなくてはならない.とうとう新婚の奥さんが怒り出した.怒りを静めるためにスキーへ行ったが,夫はスキー場から電話ばかりかけている.奥さんのほうは腹を立てて1人で帰ってしまい,ただいま別居中である.華やかな舞台の裏には,どこも似たり寄ったりのエピソードがある.

 それでも諸君はアントレプレナを志すかね.しかし,よく考えてみると,このことはアントレプレナの世界だけの話ではないのかもしれない.人間として生まれた以上,なにかやりたいものだ.安政の大獄で刑死した橋本左内の言葉に「酔生夢死はいたしたくなし」というのがある.ぼんやりとした夢のなかにいるような生き方はしたくない,ということだ.なにかやるために生まれてきたとすると,一生のうち,少なくともある期間はパラノイアたり得たいものだ.筆者のつたない経験でも,それは年をとってからでは無理だ.若いうちにやってくるチャンスであり,時代なのである.その後は惰性で走っているようなものだ.ノーベル賞物理学者のドゥ・ブロイが語ったように,「人間は一生に一つのことしかできない」のかもしれない.その一つのことを早く見つけ得た人は幸運なのであろう.幸福かどうかは別にして….


●パラノイアだけが人生ではない

 言うまでもないことだが,人生は多様である.「おれは家族をたいせつにするんだ」という人生もあるだろう.家族を守り抜く.これはこれで立派な人生であり,これがまたたいへんなことだ.家族を守り抜くためには,しかるべきカネと地位がいるだろう.このあたりのバランスをどう取るかで,あなたの人生は決まってくる.

 たいせつなことは,明確な目標をもつことだ.多くの人はこのバランスを取りかねて,あちらにふらふら,こちらにふらふらする人生を送ることが多いのだから.そうならないためにも,ターゲットを設定して前向きに動くことが重要である.自分なりの将来の姿を思い描いてみることだ.

 なに? 「それも面倒」だって.それはそれでよい.自らがそう覚悟するならね….



(本コラムはDesign Wave Magazine 2000年7月号に掲載されました)


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◆筆者プロフィール◆
水野 博之.広島県出身.1952年京都大学理学部物理学科卒.松下電子工業取締役,松下電器産業副社長を経て,現在は客員.スタンフォード大学顧問教授,ジョージタウン大学レクチャラ,奈良先端科学技術大学院大学 客員教授,東京大学,大阪大学,名古屋大学大学院の非常勤講師などを歴任.現在は高知工科大学教授,奈良先端科学技術大学院大学 客員教授,立命館大学 客員教授,Cross-Keys Systems社取締役などを兼任.




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