第11回 本当は恐ろしい学力崩壊

 最近では,当然のごとく情報リテラシー教育の充実が話題になる.小中高校にインターネットを導入するとか,一人一台パソコンを使える環境を実現するとか,いろいろな計画が考えられているようで,それ自体は大変よいことだと思う.確かに,中学生でも電子メールぐらいは使える時代になったのだが,電子立国日本としては本当にそれだけでよいのだろうかと,ふと疑問に思うことがある.

 みんながコンピュータを使えるようになればそれでいいと考えるのは,あまりにも底が浅い話だと思う.コンピュータに関するリテラシーは情報化社会を生き抜くための必須技術なのであって,それは読み書きそろばんと同じレベルで議論されることであり,それがあることは競争に参加するための条件でしかない.問題は,その上に何が乗っかっているかなのである.

 確かに,最近の学生たちをみるとインターネットやワープロの「操作」やテクニックには長けている.しかし,その裏でとんでもないことが起こっているのかもしれない.

今も昔も同じなのかもしれないが

 そんな折,昔の大学の同期の連中と酒を飲んでいて,例によって「いまどきの若者」議論に一花さいたことがあった.あちこちの大学でこんなことがあったという話なのだが,その中でとくに盛り上がったのが大学や専門学校での学力崩壊自慢である.それがどこの大学であったかはこの際どうでもよい.問題はその内容なのである.

  ある先生が情報概論の講義で次のような板書をした.

  28 = 256

 先生は,8ビットの情報量でどれだけの状態数を表現できるか教えたかったわけだが,学生から次のような質問を受けた.「先生,その小さい8はなんですか?」

 これには,驚きが二つある.一つはべき乗という概念を知らない「大学生」が存在するということ.もう一点,それを知らなかったことを別段恥ずかしいと思わない学生がいるということ.

  ある大学の電子系の学部で先生が次のような板書をした.

  f(t) = exp(-t)

 そこで質問が出た.「先生,e掛けるp(-t)ってどういうことですか?」.

 板書した先生の字が下手だったのかもしれない.しかし,電子工学を志しているはずの学生に指数関数をexpと書くということを知らないということが恐ろしい.

 そんなのは例外的な学生で昔から存在したよ,と言われればそれまでかもしれないが,その現象の中に見逃してはいけない新しい事実がある.ここで紹介したような,あっと驚く新傾向の学生に遭遇したとき,先生達は決まって「そんなことは高校で習っただろう」と諭すものなのである.

「知らない権利」

 昔は,そう言われたら学生はヤバイと感じて己の不徳を察するのだが,最近は昔とは違った対応を受ける.先生の怒りに対して,学生から「高校ではそういうことは出てこない」という反応が出てくるのだ.この反応には二つの問題がある.一つは,高校でどういうコースを選択するかによって電子系の基礎となるような物理や数学系の授業は安易にスキップされ,物理を知らない理系学生がいるということ.もう一つは,教えられなかったことは「知らない権利」であるという認識があることである.

 知らない権利に関しては,私も苦い経験がある.最近,某専門学校でコンピュータグラフィクスの講義を行ったことがあるのだが,そこで球が放物線を描いて自由落下するアニメーションを作るプログラムの作成を課題に出したところ,自由落下の運動方程式が理解されない.加速度の概念を知らない.当然ながら,微分と積分は習っていない.

 そんな馬鹿なと思うのだが,まじめな学生達は自分がそれを習っていない理由を筋道立てて説明してくれた.そういう意味ではしっかりした学生といえるのだが,そのエネルギーを知ることに充ててほしかった.

 きっと,私の年代も先代からは「いまどきの学生はなっとらん」と言われていたことは間違いなく,そういう意味では歴史の単純な繰り返しなのかもしれない.しかし,その「なっとらん」の中身が今と昔では違うパターンになっているのではないかと感じている.

時代が生み出す新傾向

 気になるここ最近の傾向として,講義中に「先生,お手洗いに行ってもよいですか?」と聞いてくる学生が現れてきたことがある.4年前にはそのような学生を見たことはなかった.人間の生理現象が時代と共に変わるわけがない.変わったのはメディアのほうなのである.携帯電話からの呼び出しが,講義に優先しているからである.昔はそういうメディアがなかっただけのことで,人間が変わったわけではない.

山本 強・北海道大学



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