第31回
草の根グリッドの心理学

 IT分野で最近話題になっているキーワードに,「グリッド(Grid)」がある.辞書的な意味は「格子」ということになるのだが,ここで用いられているグリッドの語源は電力分野で使われている送配電ネットワーク,いわゆるpower gridから来ている.

 電力送配電のしくみは,じつは情報ネットワークと似ているのである.大きな違いは,流れているのが電力(ワット)であるか,情報(ビット)であるかということである.ネットワークのノード装置が,送配電ネットワークの場合は発電所になり,情報ネットワークの場合はコンピュータになるという違いもある.

グリッドは仮想スーパーコンピュータ

 このように,二つのネットワークのモデルは似ているのだが,使われ方はこれまで大きく異なっていた.送配電ネットワークの場合,ネットワーク全体で発電所資源を共用し,見かけ上は一つの巨大発電システムに見えるように構築されている.それに対して,情報ネットワークの場合は任意の2地点間で情報交換することを主たる目的として設計されている.

 今回取り上げるIT系のグリッドは,ネットワークの使い方を情報交換だけでなく,計算資源の交換にも使おうというものである.ネットワーク上のコンピュータを高速インターネットで結んで,仮想的な超並列コンピュータを実現することと考えるとわかりやすい.

 最近のパソコンの処理速度はGFlopsを超えるのが当たり前になり,ちょっと前のスーパーコンピュータの性能をしのいでいる.これを数百台規模で結合すると,莫大なコンピューティングパワーが手に入ることになる.もっとも,そういう試みは今に始まったわけではなく,CG分野などでは分散レンダリングといって10年以上も前から使われていた手法である.

公的グリッドと草の根グリッド

 グリッドの作り方には二つの戦略がある.一つは,ネットワーク上に計画的にコンピュータを配置し,利用権のある人だけが使えるグリッドを構築するものである.多くの場合,国家プロジェクトとして作られるので,ここでは公的グリッドと呼ぶことにしよう.公的グリッドは,予算というエネルギーで動いている.

 もう一つは,ブロードバンド経由で接続された個人所有のパソコンを使ったボランティア型のグリッドである.パソコンとネットワークがあれば誰でも参加できるということで,これを草の根グリッドと呼ぶことにする.多くの草の根グリッドは,参加者の善意をエネルギーとして動いている.

 草の根グリッドのわかりやすい例に,宇宙の知的生命体を探すSETI@homeプロジェクト(http://setiathome.ssl.berkeley.edu/)がある.これは,電波望遠鏡で宇宙空間からやってくる信号をとらえ,それに含まれているかもしれない知的生命体が発した信号を探索するという計画である.入ってくるデータ量が多いため,それをすべて処理するには莫大な計算パワーが必要になる.昔なら,このようなときはスーパーコンピュータの役目となるのだが,その利用コストとなると半端ではなかった.そこで,ふだんはほとんど眠っている家庭のパソコンに目をつけたというわけである.

草の根グリッドが流行るわけ

 公的グリッドは計画経済型である.必ず利用者がいて,必要な計算パワーを計画配備しているから必要な資源は必ず手に入ることになっている.しかし,草の根グリッドではそうはいかないはずである.それなのになぜ,草の根グリッドに,人はコンピューティングパワーを提供するようになるのだろうか?

 じつはもうすでにネットワーク上のコンピュータを結合して実現された仮想巨大情報システムにWWWがある.WWWはグリッドとは違うと思われるかもしれないが,WWWはどう見てもデータグリッドなのである.かつてWWWは誰かに強制されることなく,自然に成長していったのである.どういうわけか,皆が自分のホームページを作りたくなる状況ができたのである.WWWでホームページを公開することのご褒美といえば,自分の仕事や趣味を多くの人に見てもらえること,そしてその評価がアクセス数という形で見えることだった.「豚もおだてりゃ木に登る」というたとえもあるように,人はほめられるとうれしいものである.WWWの黎明期にはそういった種類のご褒美があったように思う.

 しかし,SETI@homeのような計算資源提供型のグリッドの場合は,参加者は巨大並列コンピュータの1CPUというなんとも情けない状況になる.それでも多くの人が喜んで計算資源を提供しているのはなぜなのだろうか?

 SETI@homeのホームページを見てみると,個人やグループがこのプロジェクトにどのくらい貢献したかのランキング情報が見えるようになっている.いってみれば,見栄を張るための場を用意してあるのである.他の草の根グリッドを見ても,うまくいっているケースは参加者に貢献度競争を促進させるしくみを用意している例が多い.

 用語が斬新であるためか,グリッドは画期的なネットワーク分散処理のように見えるのだが,しくみそのものは昔からあったといえる.グリッドの真髄は,個人所有の計算機資源を喜んで提供するような状況を作る心理学にあるのではないかと考えている.

やまもと・つよし

北海道大学大学院工学研究科電子情報工学専攻

計算機情報通信工学講座 超集積計算システム工学分野


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第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
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第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
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第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
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第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
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第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
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第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
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