第49回
たかが技術倫理,されど技術倫理

 最近の工学系学科には技術倫理とか技術者倫理という名称の講義がある.科学技術が発達して,その威力や社会的影響力が強大になったので,それを使える研究者や技術者を志す学生にはその力を正しく使うための倫理が求められるということである.学生の立場になると「そんな当たり前のこと言われなくても」と思うかもしれないが,キャッシュ・カード偽造やソフトウェア不正コピーといったハイテク犯罪が連日新聞をにぎわしている現実もあるわけで,大学としては影響力がある技術を教える以上,求められる倫理と道徳も同時に教えるべきと考えているわけである.

 技術者が関係した事件で記憶に新しいのが2005年末のいわゆる耐震強度偽装建築事件である.この事件では単に建築士の設計問題ではなく,それを取り巻くビジネスや行政システムまで含んだ経済システム全体の倫理観の問題になっている.

時代のヒーローと科学技術

 以前にも書いたことがあるのだが,筆者の少年時代はマンガに出てくる科学者はほとんどが正義の味方であった.鉄腕アトムのお茶の水博士がその典型で,どこから見ても善人である.悪人側の科学者はかならず悲壮な最期を遂げるのがお決まりだった.科学性善説と言ってもいいくらいそれに関わる理系人材は尊敬されていたものである.

 それが崩れるのが仮面ライダーあたりからで,悪人側のほうが科学技術を積極的に使っていて,しかもなかなか崩壊しないようになる.悪人側が科学で武装し,善人側が精神論で戦うモデルに変化したようである.

 どうもその頃から科学性悪説に変化するのである.仮面ライダーが作られた時代は,公害問題や原発反対運動が社会的ニュースになっている時代と合致し,その背景にはそういった問題の元に科学があるというムードがあったと言える.

 技術倫理を開講することが社会の要請であるということは,裏を返せば世間は今でも「科学技術は何をしでかすか知れたものではない」と考えているということでもある.

倫理教育は難しい

 証明可能,実験可能をモットーとする理系分野を担当している側から見ると,倫理のような人文的な科目はイメージがつかみにくいところがある.何が許されて,何がいけないかの境界は主観的なものだろうし,「合法的で儲かるのになぜやってはいけないか」とか「売っているものを買って何が悪い」という質問に対して明確に答えられる人はそう多くない.だから法律が大事という人もいるが,法律が倫理と矛盾するのは普通のことである.合法的だが倫理に反することは山ほどある.

 倫理は社会通念とか宗教に近いレベルで決まる基準だといえる.国全体に共通の社会通念や行動様式があれば倫理を教えるのはむしろ簡単なのだろう.倫理を教えることが難しいということは,実は日本としての共通の社会通念がない,あるいは世代間で社会通念の分離が起こっているということなのではないだろうか.筆者は後者が今そこにある問題なのだと見ている.

二宮尊徳曰く

 1か月ほど前,ある講演会で二宮尊徳の話を聞いてとても共感し,そこでの話が筆者の頭の中で技術論理とリンクしてしまった.二宮尊徳が説くところの「経済と道徳の一致」というのが技術倫理,つまり技術の正しい使い方に共通するものがあると感じたわけである.

 尊徳の名言に「経済なき道徳は寝言,道徳なき経済は犯罪」というのがあり,経済と道徳,つまりは倫理が共存するのが正しい行動であるという.わかりやすく言えば,志を持って一生懸命働いて,それを道徳的に使えと言っているのだとか.

 その話を聞いた後で,いろいろな人に「二宮尊徳を知っているか」と聞いたところ,そろって「薪を背負って本読んでる人」という答が返ってきた.筆者も話を聞く前はそのレベルだったのだから,人のことは言えない.おもしろいのは,学校にあった銅像は知っているのだが,何をした人かを知らないということ.何をした人か知らないのに名前は有名なのである.

 後で調べてわかったことだが,二宮尊徳は戦時中,小学校の修身の教科書の重要コンテンツであり,戦後教育で修身がなくなると同時に教育からは消えて銅像だけが残ったということらしい.つまり,終戦時に小学生以上だった人は二宮尊徳の思想を行動規範として教えられているということである.技術に限らず,道徳観や倫理観の世代間分離のルーツは60年前の教育制度の急激な変化にあるように思う次第である.

 二宮尊徳は科学技術についてとくに何か言ったような記録はないのだが,経済と道徳の話を聞いて筆者は科学技術と産業の関係を整理したくなった.

 見渡せば,難しそうな科学技術用語をちりばめた怪しげなダイエット食品や水が売られているし,大学にある技術シーズはなんでも産業になるみたいな言われ方である.科学的に見えるから何でも良いというものでもあるまい.

 そこで私も一言,産業のない科学は趣味,科学がない産業は詐欺ではないかと言っておこう.

やまもと・つよし

北海道大学大学院情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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コラム目次
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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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