第50回
フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術

 2月末に開催された学会でフィンランド・オウル大学からPetri Pulli教授を招聘することになり,その窓口役を筆者が担当することとなった.フィンランドといえばNokia社が有名だが,Petri Pulli教授はそのNokia社の開発拠点があるオウル市のIT分野,とくにモバイル・コミュニケーション分野のキー・パーソンなのである.

 オウルは,いわゆる「産業クラスタ」(企業,機関などがお互いに結びつき,相乗効果で新たな産業を創出すること)の成功事例として世界的に知られており,日本から,とくに地方都市からの視察が絶えないところでもある.フィンランドを象徴するのはムーミンとサンタクロース,近年ではそれにNokia社とLinuxが加わっている.それに加えて高齢化社会という私たちもそう遠からず直面するであろう未来社会に突入している国でもある.

 招待した側が期待していたのは知的通信とか,モバイル・コミュニケーションといったハイテク話だったのかも知れないが,いただいた話は少し趣が違っていた.この話,技術もさることながらそこに出席していた高齢の大先生達は,若手の研究者にはわからないリアリティをともなって聞き入っていたようである.

高齢化社会の現実

 Petri Pulli教授に講演をお願いしたところ,タイトルとして上がってきたのが「Ubiquitous and Augmented Living Environment for Senior Citizens」であった.訳せば「高齢者のためのユビキタスで補強された生活環境」とでもなるだろうか.要するに,IT,とくにユビキタス技術やVR(仮想現実感)などで高齢者でも生活しやすい環境を作ろうというものである.フィンランドに限らず北欧は高福祉国家であることが国の特徴にさえなっており,福祉そのものが国家的な売り物でもあったりする.

 高齢者向けの技術支援には二つのモデルがある.一つは,高齢の健常者に対するケアである.高齢になっても案外普通に生活できる人は多いのである.身体機能が若いときよりも低下しているというだけで,生活に支障がないというレベルの高齢者は少なくない.フィンランドでは80歳以上の女性の65%,男性の70%はそういう人たちという話だ.高齢者をあなどってはいけない.そういった高齢者に対しては機能補完型(オーグメント型とも言う)の環境支援が求められている.だからパソコンというほど話は簡単ではない.教育大国フィンランドとはいえ,さすがに80歳を超えると女性の20%,男性の33%ほどしかそういったハイテク機器を使えないのだそうだ.

 もう一つのモデルは英語でいうところのDementia,すなわち記憶障害や痴呆症の患者に対するケアである.これに対する予測では,今の状況が続くと2030年にはフィンランドの全病院のベッド数を超える数の要入院の患者が発生することになり,生産年齢にある人が病気やけがでも入院できなくなるのだとか.高齢化社会の現実はシビアである.

ITができる高齢者への生活支援

 高齢化で肉体的な機能と知的機能の両方が低下するわけだが,そのどちらにもITは救いの手を出すことができる.わかりやすいのは身体機能の低下に対する対応である.視覚や聴覚などほとんどの人に降りかかってくる機能低下に対しては,そこに市場が見えるが故に企業も意欲的に取り組んでいる.耳の穴に入る超小型補聴器などその性能は驚嘆に値するものもある.最近ではユビキタスをキーワードにいろいろな行動サポート・システムが提案されているのだが,大根にICタグがついたところで,それを喜ぶのは紀伊国屋で毎日野菜を買えるセレブ家庭ぐらいで,今後はこの分野も高齢化社会のサポートに向かうのはまちがいない.

 知的障害について言えば,補助の視点は二つある.当人に対する視点と介護者に対する視点である.徘徊など,当人にはその認識はないわけで,困っているのは家族など介護する側という状況が出てくる.そこでGPSと携帯電話を連携した介護支援システムなどが出てくるわけである.これも本当に必要なのは当人に対するケアなのである.知的障害といっても単なる記憶障害もあれば,行動ロジックの破綻もある.記憶障害など考え方によっては,外部補助記憶によって生活機能をかなり補える可能性もある.

 今年の正月映画のヒット作に「博士が愛した数式」があった.数学者という特殊なキャラクタに記憶障害が降りかかるという状況設定なわけだが,別の見方をすると一部の機能欠落と人間の本質は別であるということを暗に示している.

 この映画の博士は補助記憶を付箋紙で補っていたわけだが,補助記憶が眼鏡の中に入っていれば案外普通の生活ができるのかもしれないのである.VR,ARというとサイボーグ兵士のようなインパクトのある外見が期待されるのだが,高齢化社会に違和感のない知的機能補助システムを考えなければいけない時期に来ているようである.

やまもと・つよし

北海道大学大学院情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
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第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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