第51回
技術の格差社会

 書店に所得格差や階級社会をテーマにした本がたくさん並ぶようになって久しい.かつて一億総中流が日本の社会構造の特徴だといわれた時代もあったが,どうもこの先の社会は「個人個人で収入に相当な差があって当たり前」になりそうである.

 政治的,行政的視点で見れば,格差が広がることは問題であるということになるのだろうが,一方で日本がかつて追いかけていた欧米先進国はどうみても階級社会なのだから,日本だけ総中流社会であり続けるというのも無理があるようにみえる.差があることが悪いのではなく,差の形にも良し悪しがあるということなのだろう.

 いまマスコミで格差といえば所得格差のことになるのだが,差が広がりつつあるということで言えば個人の技術水準の格差もある.所得格差は金額という万人に共通するスケールで測られるので話題性があるのだが,それぞれスケールが違う技術分野の格差は話題になりにくいのである.

技術格差社会の現実

 テレビで,街を歩く若い女性に家庭料理を作らせて常識のなさで笑いを取る番組がある.「今時の若い者はなっとらん」というありがちな構成なのだが,そこで話題になっているような常識力の低下はIT関連分野でも進んでいる.

 少し前に,中国と韓国から来日した留学生を含む何人かの学生に商用電源の周波数と電圧を質問したことがある.留学生はおおむね自国の周波数と電圧を知っているのに対し,日本人学生は自信を持って答えられない学生が少なからず存在するということに愕然とした経験がある.どこかの番組で100人の若者に商用電源の電圧波形を書いてもらうという調査を行ってもらいたいところだ.

 こういった技術に関する常識を新聞やテレビが話題にしにくいのは,実は新聞記者やテレビのレポータたち自身がそういうことを知らないからではないかと勘ぐりたくなってしまう.

 かつてディジタル・デバイドがIT化を推進する上の問題だと言われていたが,その後,どうなったのだろうか.

 ディジタル・デバイドが問題視されたのはIT分野の能力格差が新しい階級格差を作るからであり,そういった状況を作らないように情報リテラシ教育を強化しなければならないということだったと思う.しかし,実際のところはといえば,ディジタル・デバイドは個人のIT常識が上がったのではなく,IT機器のインターフェース規格の標準化や操作性が進化することで改善されたわけで,肝心のITリテラシ,とくに技術的なリテラシは逆に低下していると見るのが正しいようである.

 ファイル交換ソフトによる情報漏洩事件に代表されるネット事件の多発も,その背景にはブロードバンド環境の普及とITリテラシの低下が同時進行している現在のネット社会の構造的問題があるように見える.

社会の成熟と技術リテラシの低下

 だれもがある程度の技術リテラシを持っているというのは,社会のしくみとして重要なことである.国民の技術リテラシの最低レベルが保証されるなら,それを前提に標準サービスを設計することができることになる.だから義務教育の内容は大切なのである.国民の技術リテラシの最低基準が見えているから,インフラの要求水準を決めることができるのである.

 車にしろ,家電にしろ昔のオヤジどもはなんだかんだとそのしくみを知っていた.これは,昔の人が賢かったからではなく,ちょっとした故障修理ができないようでは車や電気製品を安心して持てないくらい,昔は道路や電気のインフラが悪かったからである.そういった状況で新しい機器を手に入れるためには技術が必要だったわけで,そう考えると留学生が技術に詳しいのもなんとなく納得できる.技術格差社会は,裏返せば日本の社会インフラが成熟して,そういったことを知らなくても何も不安なく生活できるようになった結果でもある.それはそれですばらしいことなのだが,高度なインフラ環境やIT機器を開発するには高度な専門技術を持った人材が欠かせないといった観点からすると,次の技術開発を担うべき若者がそこに興味を持たないところが問題なのである.

 この映画の博士は補助記憶を付箋紙で補っていたわけだが,補助記憶が眼鏡の中に入っていれば案外普通の生活ができるのかもしれないのである.VR,ARというとサイボーグ兵士のようなインパクトのある外見が期待されるのだが,高齢化社会に違和感のない知的機能補助システムを考えなければいけない時期に来ているようである.

技術エリートが注目される社会は来るか

 所得格差の拡大が社会問題扱いされる背景には,その格差が発生する原因が居住地域や教育環境という,個人の責任ではないところにあるという問題がある.その延長線上には,家系が階級を決めるという貴族社会のイメージが見えてくる.世論はそれを望まないであろう.それに対して,技術力の格差は個人の努力で埋められる,というよりもむしろ差が付けられるという点が所得格差とは明らかに違うのである.努力で追いつける社会,差をつけられる社会は健全な社会である.努力して技術を獲得すれば,それが所得格差として見えるようになれば,結果として技術を指向する若者が増えてくるはずだ.

 本田技研やソニーの創業期には技術のトップと経営のトップがだれからも明らかに見えたし,どちらかといえば技術者がかっこよくみえたものである.日本人の伝統的な価値観では技術を持つ人を尊敬していたのだが,社会の成熟とともに技術に対する憧れや尊敬が薄れていったのである.この先,わが国がどういう形で成熟期を迎えるかという,国家レベルの長期ビジョンが問われているのが,過渡期の格差社会なのではないだろうか.

やまもと・つよし

北海道大学大学院情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
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第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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