第59回
IT先進国フィンランドの計画性

 9月中旬から1カ月の予定でフィンランドのオウル大学に滞在することになった.オウル市は北極圏まであと100kmほどという極北の地なのだが,政策的にIT産業を集積した地域であり,フィンランドIT開発拠点という位置付けになっている.

 フィンランドは評論家の先生たちには恐ろしく評判が良い国で,IT,福祉,教育,デザインなど多くの分野で「フィンランドに学べ」というムードがある.「私はフィンランドに通じている」という雰囲気を醸し出すのが,評論家としての一つの見識のような感じもある.そんなわけで各種業界のフィンランド・レポートはたくさんあって,どれも判で押したように絶賛している.かつて評論家たちが社会主義国を地上の楽園のごとく評していたことを覚えている私には,何かあのころに感じた違和感と似たものを感じてしまうのである.

 そんなわけで,今回は私の視点で分析するこの国のITの深層構造の話をしたい.

Linuxで組まれた機内エンターテインメント・システム

 まず,軽い話からしよう.フィンランドに行くのに一番便利なフライトはフィンランド航空となる.今どきの機内サービスは個人用液晶モニタが常識で,暇な私は当然ながらそれで遊んでいたのだが,途中で突然画面が固まってしまった.そんなこともあるかと,キャビン・アテンダントに症状を説明したところ,彼女は「マスタ・リセットする」と,機内前方に消えていった.その直後,画面が暗転してどこかで見たペンギンとLinuxのブート・メッセージが出てきた.このシステム,席ごとに独立したLinuxマシンらしい.さすがフィンランドのエアラインである.Linuxベースというフィンランドらしさに感心する一方で,もし素人がこの症状を経験したら客は怒ることだろうとも思った.

「www.地名.fi」と「www.会社名.fi」

 どこかへ行こうと考えると,まずその場所の情報検索を考える.フィンランドで感心するのは,ある規模以上の都市は必ず地名を含んだURLで情報サービスを行っているということだ.だからオウル市はwww.oulu.fiがトップページになる.都市名だけでなく,会社も大学も同じようにcoやacといったSLD(Second Level Domain)を使わない.だからNokia社はwww.oulu.fiとなる.分かりやすいのだが,これで名前が衝突しないのが不思議だ.日本や米国で同じことをしようとしても,先取主義だから誰かが先にドメイン名を押さえていたらそれまでだと思うが,ここではそれができるらしい.オウルはオウル市にオウル大学があるから,既に市名と大学名が衝突している.そこでなんと,両者はoulu.fiドメインを共有しているのである.www.oulu.fiを見ると,それは大学と市の共通のホームページとなっている.ずいぶんと計画的な国なのである.

アナログ放送が停波した国

 フィンランドでは2007年8月31日をもってアナログ放送が停波した.今住んでいるホテルのテレビもディジタル・テレビである.このテレビはアナログ・チューナも付いているのだが,でアナログ放送で見られるのはホテル内サービス番組だけで,地元局のアナログ放送は完全に止まっているのだ.

 日本は2011年のアナログ放送停波に向けてPR活動を進めている最中なのだが,そういった流れで見ると,このフィンランドの完全ディジタル移行完了は大きなニュースなのではないだろうか.しかし私はここに来るまでこの事実をまったく知らなかった.私が見落としたのかと思って新聞データベースを検索してみたのだが,どの新聞にも9月1日のフィンランドとデジタル放送に関係する見出しが出てこない.あれだけフィンランドに関心が高い日本の評論家さんたちは一体どうしたというのだろう.

計画が作る先進性と統一感

 確かに,人口12万人のオウル市ですら,バスの乗車券はICカードだし,市内全域が無料の公衆無線LAN panouluでカバーされている.昔話題になった携帯電話でコーラが買える自動販売機も空港には存在するらしい.いろいろとIT先進地域の片りんをのぞかせてくれるのだが,生活感覚では「だからどうした」というところである.斬新な例はあるのだが,それほど徹底しているように見えないのである.テレビは例外として,多くは旧来システムとITシステムが混在して,経済的合理性が感じられない.「何か,無理してないかい?」というのが私の感想だ.

 ディジタル・テレビの完全移行で特に感じるのだが,多くの国が同じことができないのは国の規制だけでは物事が決まらないからである.市場競争で勝ったものが生き残るのが自由主義経済なのであって,その競争期間は結構長いのである.

 そんなことをこちらの大学教員たちと話していたら,彼らが簡単に説明してくれた.フィンランドの国家体制はもともと社会主義国に近い構造だったという.今でも国が決めたらやるしかないという感覚があるらしい.そう言われれば,携帯端末メーカはNokia社1社だけで国家と一体になった経営になっている.バスのICカードも全国で同じ規格だし,地名URLの話もお上がそう言うからということで一件落着してしまうのだろう.

 規格の統一や強制力が前提になるIT政策は社会主義的な政策や運営が案外効果的に働くのではないかとフィンランドに生活していて感じている.もちろん,読みと計画に間違いがなければ,ではあるが.

やまもと・つよし

北海道大学大学院 情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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コラム目次
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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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