山際 伸一

ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜


 筆者は2年ほど前からポルトガルに住んでいる.今回から3回ほどに分けて,ヨーロッパやポルトガルのエレクトロニクス事情やエンジニアを取り巻く状況などについて,いくつかの話題を書いてみたいと思う.

ヨーロッパ=一大国家!?

 ヨーロッパで働くようになると,まず思うことは,一国に住んでいるということではなく,ヨーロッパという巨大国家の中で働いている,という認識をもつことである.

 もっとも,身近に感じるのは,いろいろな国の人がいっしょに生活しているということである.筆者の会社でさえ,ドイツ人,スウェーデン人,ポルトガル人,ルーマニア人,日本人,…と,いろいろである.もちろん,それぞれが自国の誇りを持ち,互いが妙な風習があるなどと言いあい,アイデンティティを住む国にすべてあわせるようなことはせず,会社という組織の中で決められたルールの中,協力し合って業務を行っている.ミーティング,広報のメールは英語,などといったルールで全体をうまく回している.

 さらに,購買の際には,「ユーロ」で一律計算されるため,隣国からの開発用物資を簡単に輸入することができる.すなわち,欧州連合内では,国境での関税は一切ないのである.一例として,同僚がamazon.com(アメリカ)から買い物したときは,きちんと関税+消費税を国境でかけられ高い買い物をしたということだが,amazon.co.uk(イギリス)からの買い物をすればまったくの関税なしで送られてくる.つまり,欧州からの買い物は国内で買い物をしているのと同じ感覚なのである.

 このような欧州ルールから,ポルトガル国内のIT企業は「国内市場」ではなく,「ヨーロッパ市場」を視野に入れて開発を進めるのが自然の戦略となる.ヨーロッパの携帯電話を買うと,その言語モードの多さに驚くだろう.英語,ドイツ語,フランス語,ポルトガル語,ギリシャ語…と田舎モノの私にはちょっと得した気分になるほどついている.これはヨーロッパ市場という視野で製品を投入するということの現れであると考えられる.

ヨーロッパのIT市場

 ヨーロッパの産業と聞くと,なにを思い浮かべるだろうか.プジョー,ジャガー,ルノーなどの自動車産業であろうか.ベッカム,ジダン,フィーゴなどのサッカー産業であろうか.ヨーロッパには電子立国日本のような大きな市場ではないが,Philips,Siemens,Nokiaといった巨大企業がIT産業を引っ張り,世界の技術を支えるまでになっている.IT産業はドル箱産業の一つであると欧州連合も認識しており,毎年,すさまじい額の補助金が企業の発展に注がれている.これからのIT産業の拠点をどの程度,欧州全体で増やしていくことができるかが,ヨーロッパのIT産業の今後の発展にキーとなるのではなかろうかと思う.

 先に述べたようにヨーロッパは国境がない.しかし,各国にはIT産業の色がある.たとえば,モノづくり(ハードウェア)はドイツ,フランス,イギリス,オランダ.コンテンツ(ソフトウェア)はスペイン,ポルトガル,イタリア,ポーランドなどの近隣諸国というイメージである.国境がないうえに,通貨がユーロで統一されているため,国を超えた発注が行われるのは,日常茶飯事である.開発リソース(たとえば,ソフトウェア・ツール)をほしいとき,日本であれば,国内代理店を探すだろう.しかし,ヨーロッパの場合,国内代理店がないときがある.このような場合には,近隣国の代理店に問い合わせ,直接,購入手続きをする.もちろん,サポートも隣の国から,というのが通常である.また,筆者の会社では時々,スペインからの発注を受ける.スペインまで車で出向いて,仕事をし,ポルトガルまで日帰りするという日々を送ることも珍しくない.

写真1 テージョ川にかかる4月25日橋から首都リスボン市内を望む
写真2 ユーラシア大陸最西端のロカ岬
写真3 世界遺産ジェロニモス修道院.後ろに立ち並ぶのはオフィス街

ポルトガルのエンジニア就職事情

 ポルトガルの面積は日本の約1/4で,総人口は約1,000万人なので人口密度は日本よりずっと低い.つまり,人材確保がITビジネスのキーとなることは言うまでもない.ことに,筆者の働くポルトガル市場はソフトウェア・ビジネスの比重が非常に大きく,さらに,レベルの高いエンジニアは非常に少ない.

 どこの世界も仕方のないことであるが,ヨーロッパも悲しいかな学歴社会である.高い学歴があると,将来,ダイヤとして輝く可能性があると企業は考えている.しかし,日本のように,どの大学にも均一にダイヤの原石(まだ芽生えぬ天才)があるわけではなく,ポルトガルではごく限られた大学だけに原石があるという考えである.

 リスボン工科大学(Instituto Superior T´ecnico)はその一つで,卒業者の就職率は非常に高い.つまり高い確率で,その学生が社会に出た後,企業で大活躍するのである.これは大学教授がよい学生のみを選び,産業に密接した研究課題を雨あられのように浴びせるため,自律行動可能な優秀な人材が育つのではなかろうかと思う.学生もみずからの研究業績に応じて,教授からの奨学金を受けられるので,自然とその能力が付くわけである.このような自律的に行動できる人材を探すのは,この国では,こういった大学にパイプを作らない限り非常に難しい.

 そこで,多くの企業は他国に目を向けるのである.日本でも,中国,韓国,インドといった近隣諸国で優秀な人材を確保している企業も多いが,ヨーロッパには国境がないうえに,シェンゲン条約(EU域内の国境通行自由化と簡素化を目的とした共通滞在規定)という,島国には考えられない条約があり,労働ビザの心配などなく,人材を雇用できるのである.シェンゲン条約加盟国(オーストリア,フランス,ドイツ,イタリア,ベルギー,オランダ,ルクセンブルグ,スペイン,ポルトガル,ギリシャ,デンマーク,スウェーデン,フィンランド,ノルウェー,アイスランド)の国民はその範囲内でどこでも労働・居住の自由が認められている.

 しかし,筆者は生粋の黄色人種の日本人なので,このような欧州の恩恵にあずかれない.ヨーロッパでは,労働契約をしたことを公証役場で認証し,その事実をもって滞在可能になる.つまり,税金を払うことを宣言しないと,欧州以外からの人材流入をさせないように制限しているのである.これは,欧州内の労働機会を守るうえで重要であり,日本も同様な制限を行い,自国の労働機会を守っている.しかし日本では労働契約書を交わしたことを公証役場で認証を受けることがないため,とても困惑した.

 さて,ヨーロッパの社会保障は非常に高度である,という話をよく聞かれることだろう.しかし,これは暗に,収入からごっそり社会保障費と所得税が引かれるということ,さらに企業の人件費がかさむということである.ポルトガルでは企業の社会保障費負担は給与の約20%である.企業の負担率が高いうえ,一般的に高給取りのエンジニアの雇用は非常に少ないのが現実であり,前述のようなダイヤの発掘合戦となり,さらに,欧州外からの雇用拒否が促進されているのである.

ポルトガルのエンジニアたち

 ポルトガルは北緯はほぼ北海道と同じくらいであり,夏はカラッとした雲ひとつない晴天続き,冬は0度以下にはならないために,非常にすごしやすい.どこかの旅行本が「常春の国」と表現していたが,まさにそのとおりだと思う.

 しかし,緯度が高いために日の出が遅い.冬になると午前10時にならないと日が昇らない.したがって,人々の生活サイクルがずれている.少なくとも,すべての人が2時間ほど生活サイクルが遅れている.セミ・バンパイアとでも言うべきエンジニアにとっては喜ばしいことである.

 さらに,昼休みは1時間30分,午後の仕事は2時30分からと,日本の感覚とずれまくった生活サイクルに,はじめのうちは「昼休みをこんなに取るなら,開発に時間当てろよ」とイライラしていたが,いまでは「休みは休み!」と割り切ったところがなんとなくうらやましく思っている.

 有給休暇も20日間が認められている.土日をあわせると,まるまる1か月休みが取れる計算になる.日本ではとても1か月など休めないが,ヨーロッパでは7〜8月に,集団で休みを取るというたいへんな時期が毎年来るのである.すべてのサービスの質が低下し,観光地が大賑わいする.会社はもぬけの殻で,残った人がてんてこ舞い,などというのが恒例行事である.

 日本は「労働は義務」と憲法がうたうように,働いていることが美しく見える文化であるが,ヨーロッパではまったく逆で,働かないことが美しく,家族との時間を重視する.同じエンジニアとして,このようなアナログな部分にきちんと目を向ける文化にふと我の生活を省みるのである.しかし,マネージャとして,「ちゃんと開発時間を割いてね」と念を押したいのをいつも飲み込んでいるのも事実である…

*          *

 次回は,ポルトガルの「プチ秋葉原」について紹介しよう.


やまぎわ・しんいち

PDM & FC シニア・コンサルタント

INESC-ID 客員研究員

工学博士





copyright 2004 Shinichi Yamagiwa

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