1987年頃からの東欧の民主化,1991年のソビエトの終結は未だ記憶に新しいところです.同時に,1987年は東芝機械のNC工作機械のCOCOM違反事件がアメリカでの東芝製品の不買運動を引き起こすなど,大きな国際問題となり,当時の通産省が「コンプライアンス・プログラム」の徹底に奔走した年でもありました.
これは,当時の“共産圏”への“先端/戦略物資/技術”の輸出に関する規制の厳しさの一端を実感させた事件でした.
当然,ソビエト政府は西側に対抗するため,とくに軍事,治安関係のシステムを自前で構築する必要があり,各種ソフトウェア開発を国家事業として行いました.そのため,以下のような特徴があります.
@西側に対抗しうる多様なソフトウェアの開発を実施
現在のロシアには,思いがけず,パッケージ化,商品化の可能な多様なソフトウェアが存在します.
A優秀な理数系の学生を重点的にソフトウェア開発に配置
これは,組み込みシステム用のデータベース・ソフトウェアの開発のメイン・アーキテクトであったロシア人技術者の話ですが,70年代から80年代にかけて,ソビエト政府は,西側の共産圏への輸出規制であるCOCOMのために,最新のハードウェアを入手できず,西側のシステムに伍するために,ソフトウェアの開発,技術に注力し,理科系の優秀な学生を優先的にソフトウェア開発の仕事に配置したとのことです.
これにより,単なるソフトウェア開発者ではなく,さまざまな科学分野の頭脳が,ソフトウェア開発に携わることとなり,ソフトウェアの機能,性能の向上に貢献したと言われています.
Bモスクワだけでなく,地方の中核都市でも同様な政策を実施
これらソフトウェアの開発は,モスクワだけでなく,地方の中核都市でも実施され,地方のソフトウェア技術の水準の向上に貢献しました.
これらの事業は,冷戦により必要に迫られたものですが,結果として,ロシアにおけるソフトウェア産業の基礎を形作るものとなりました.
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