第42回

〜対談編〜


外資系の会社に入社


はじめまして.さて,ティナさんはかなり変わったプロフィールをお持ちですが,まずアメリカに来られたときの話からお願いできますか.
私はベトナムで生まれましたが,家族の意思でベトナムを離れることになりました.戦乱の後,共産主義の国になり,いろいろと問題が多く,新しい生活と自由を求めてアメリカに行くことになりました.当時は,10代になったばかりの私と兄が逃れやすいということで,二人でベトナムを脱出することになったのです.計画は,漁船のような小さな船でタイの難民キャンプに行くということでした.本来なら,モータ付きの船で3日でたどりつく予定でした.しかし,小船に大勢が乗ったため,タイに着くまで動力だった小さなモータが何度も故障しました.船は,20人乗りぐらいの大きさですが,なんと乗組員は全部で132人でした.ベトナム兵から身を隠すため,ほとんどの人は甲板下の船内にいるわけです.座ることがまったくできず,立ったまま天井の低い船内にはりめぐらされた手すりのようなものにつかまって乗っていたという感じでした.また,海に出た1日目の夜にかなりひどい嵐に遭い,すぐに迷子になりました.
まさに,ボートピープル(Boat People)ですね.
そうです.その日は夜になってから大雨となり,船内に浸水してきたので皆でコップやバケツ,帽子などを使って排水作業を行いました.船内はランタンでやっと見える状態で,嘔吐やエンジンオイルの匂いが交じり合った中での過酷な作業でした.初日の夜は,この脱出の旅で自分が死ぬ可能性が高いことを認識しました.でも,私はまだ若かったのでしょうか.自由の国アメリカで大学に行ける!という夢がすべてでした.やっとのことで夜中の嵐もおさまったのですが,船は徹底的に迷子になり漂流していました.だんだん食料や水も底をついてきました.この直後に海賊に襲われました.
海賊!? すごいですね.現代の南シナ海の海賊は,話では聞いたことがありますが…….
海賊にもいろいろあり,われわれを襲った海賊船は漁船が漁の合間に難民ボートに乗り込んで金目のものを取るというタイプでした.彼らは,まずわれわれの船に乗り込んで来て,乗っているすべての人に,自分達の船に移るよう命令しました.そのとき,橋のように板を二つの船に渡していたのです.その橋を渡るときに私は本当に逃げ出したくなり,一瞬海に飛び込もうかと真面目に考えました.しかし,嵐の夜のことを思い出すと,それほど大したことでもないのではないか?と考えることができて,海賊の船に渡りました.持ち物はほとんど奪われましたし,船内は入念にチェックされていました.漁船だったので新鮮な魚をたくさん積んでいて,かなりのご馳走にありつけました(笑).
海賊にご馳走してもらったわけですね.でも,お金とかは取られたんですよね.
これには親が配慮してくれていました.ダイヤを小さなビニール袋に入れて,兄と私でもちました.これは,いざというときに飲み込めるサイズになっていました.また100ドル紙幣を,見てもわからないようにトイレットペーパーに一枚一枚包んであるものを親が用意していました.ほかに乗っていた人達は,ネックレスや財布など,金目のものはすべて奪われてしまったようです.私と兄は,普通の持ち物は取られましたが,肝心のトイレットペーパーとダイヤの袋は取られませんでした.
戦乱のときにユダヤ人がダイヤをもって逃げるシーンを映画で見た記憶があるのですが,本当にあるんですね.それで,ビニール袋の包みは飲み込んだんですか?
飲み込まなくて済みました.後で回収するのが面倒でしょ(笑).その後,オーストラリアの石油採掘船に助けられました.1980年1月1日のことだと覚えています.乗船は拒否されましたが,水,食料,燃料をもらい,タイまでの沿岸ルートも教えてもらいました.

今回のゲストのプロフィール

Tina Tran(ティナ・トラン)

 旧サイゴン市(現在のホーチミン市)の南西に位置する都市ロンスエン(Long Xuyen)出身.1979年,10代でベトナム難民として兄と二人でベトナムを脱出.Texas A&M大学で電子工学を専攻し,卒業後はシリコンバレーでEDAソフトの開発やチップの設計など幅広いエンジニアリングを経験する.エンジニアリング職の合間にMBAを取得し,現在はC-Cubeでプロダクト・マーケティングの職に就いている.



とまどいの多いアメリカ生活の始まり


そのあと,タイからアメリカに渡ったのですか.その背景について話してください.
難民キャンプでは,さまざまなグループが最終的に難民として受け入れてくれる国を探してくれます.私達はアメリカに叔父がいたので,アメリカに行くことが決まっていたのですが,その手続きに6か月ほどかかりました.
6か月をタイの難民キャンプで過ごしたわけですね.これもたいへんだったのでは?
いいえ,とんでもない! ちゃんと足が地面に着いており,食事もでき,寝るところがあるだけで幸せでした.海は荒れるし,船内は狭いし,病人も出るし,不安な毎日でした.タイのキャンプでの私の日課は,英語の勉強をすることぐらいでした.
それからアメリカに来られたのですか?
タイラー(Tyler)という小さなテキサス州の町に,叔父が先に渡米していたのでそこへ行きました.アジア系の人はほとんどいない田舎町でした.教会の支援で安く借りられたアパートで,兄との二人暮らしが始まりました.地元の公立高校に兄と通いました.
田舎町ですか…….私が渡米したのは高校からでしたが,カルフォルニアのサクラメントのすぐ近くの田舎でした.高校生活はどうでしたか?
英語を勉強したといっても,日常会話をほとんど理解できなかったので,たいへん心細い経験をしました.いつもなんとかなる……と思っていたのですが,なかなか言葉ができないことがわかったときは辛かったですね.しかし,化学や物理,数学といった理数系の授業はドンドンできました.
私が渡米したときは,寮制の学校だったのでいやでも英語をしゃべらなければ日常生活に困るといった状態でした.たとえば,食事はかなりフォーマルな感じで12人掛けのテーブルに着き,上級生がテーブルのいちばん上座に座っており,彼に何が欲しいかをはっきり言わなければならないのです.
ふーん,面白いですね.やっぱり24時間英語に浸たるという生活が手っ取り早く身につきますね.私の場合は,ひょんなきっかけでアメリカ人の家庭で生活をすることになり,毎日が英語の世界になりました.これでずいぶん英語の進歩が速くなり,数か月後にはすべての授業についていけるようになりました.生活に慣れてからは,大学に行く費用を捻出するために兄と二人で勉強以外のときはバイトに専念しました.ファーストフード店がほとんどですが,できるだけ貯金が増えるように長時間働きました.船で何度も死にそうに危ない目に会ったことと比べたら,ファーストフード店での仕事が辛いと思ったことはありません.

シリコンバレーの生活へ


話は少し飛びますが,シリコンバレーにはどういうきっかけで行くことにしたんですか?
兄が私より一足先にTexas A&M大学の電子工学部を卒業してシリコンバレーで就職していたので,私も電子工学部を卒業してシリコンバレーで就職しました.私はデザインオートメーションの仕事を経て,LSI Logicでかなり長く仕事をしました.数年仕事をしてみて,私は純粋な技術職より人と一緒に仕事がするのが向いていると感じてMBAを取ることを考えました.ほとんど学費は会社に出してもらいましたね.その後,なじみの上司がC-Cubeに移ったので,彼の招きで後から移りました.

シリコンバレーのほとんどの会社は,修士号や博士号を取ったり,MBAを取るために必要な学費を出してくれますよね.お兄さんもエンジニアですね?

そうです.兄はソフト寄りの仕事が得意です.また,私と違ってスタートアップが好きなようで,いくつか会社を起こしたりしています.

お兄さんと仲が良いみたいですが,今後二人で一緒に仕事をするとか?

アハハ!まあ,仲は良いのですが,仕事のやり方は違いますよ.私はあまりスタートアップに興味がないですから.私の夫もスタートアップの設立メンバーですし,まわりにはスタートアップに関連する人がたくさんいますけれど.

よくあるパターンですよね.夫婦のどちらかがスタートアップに勤め,どちらかがもう少し安定した大きな会社に勤めるというのは.

まあ,そこまで計画して考えていませんでしたが,そうなりましたね.それに,私には2歳と4歳になる男の子がいるので,スタートアップよりも忙しいと思います(笑).

お子さんが大きくなったら,何か違うことを考えていますか?

いまのところはそこまで考えていません.育児をしながら会社に勤めることはできますしね.今は,仕事以外では非営利団体のボランティア活動に興味があります.VNHELPという団体で,ベトナムの教育や医療活動を支えるグループです.やはりいろいろな人に支えられながら私の生活はうまくいったので,今度は自分がその支えになる番だと確信しています.


対談を終えて
 ティナ氏は,このコラムに以前出ていただいた下平氏(2000年8月号,9月号)から「とにかく,なかなかないすごい話をしてくれるからインタビューしてみては」というコメントで紹介していただいた.シリコンバレーには,いろいろな国からの移民が集まり,それぞれのストーリーがある.ベトナム系の人はいろいろな会社で見かけるが,どこかに家族が難民として渡米した経歴が必ずといってよいほどある.戦乱の時代を生きてきた人が多く,度胸が座っており,良い仕事をするエンジニアが多いのも特徴の一つである.さまざまな苦労をされているにも関わらず,ティナ氏は豪快によく笑うユーモアに富んだ印象的な人だ.


トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 

copyright 1997-2001 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
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第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
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第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
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第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
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第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
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第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
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第58回 温泉紀行
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第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


Copyright 1997-2005 CQ Publishing Co.,Ltd.


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