第83回

Engineering Life in Silicon Valley

めざせIPO!


 この原稿を書いている5月半ばのシリコンバレーでは,GoogleのIPO(Initial Public Offering)=株式上場が大きな話題となっている.株式上場は,スタート・アップに勤める人達にとって大きな節目のイベントでもある.スタート・アップを選ぶ理由はさまざまだと思う.自分のやりたい仕事をとことんまでやれる環境だとか,仕事の内容が充実していたり,自由度が高い場合が多い.もっとも,一攫千金の夢を見てストック・オプションに賭けるエンジニア達が多いのもたしかである.

インセンティブとなるストック・オプション


 シリコンバレーのスタート・アップでもっとも多いストック・オプションとは,株式上場(株式公開)する前の自社株をある設定された価格で,決められた株数を購入できる権利である.株数は勤務年月によって分割されて配布される.これは,特に決まった期間はないが,多くは4年から5年ぐらいになる.社員に長く残ってもらうためのインセンティブの一つだ.

 多くのスタート・アップは,会社のキャッシュ・フローをコントロールするために大幅に給料を低く設定しているところが多い.そのため,ストック・オプションで金銭的なインセンティブを与えるのは当たり前とも考えられる.例を挙げると,株は5年勤めてすべての数量を引き受ける権利が与えられ,初めの12か月後に初めの5分の1が与えられ,その後は1か月ごとに増えて行くシステムが多い.一般的には,株価は入社した前後の会社の評価額で決まる.

 実際の例を出して説明するとこうなる.6,000株を一株$0.25で買えるストック・オプションとなると,初めの12か月後には,1,200株行使できる権利を与えられ,その後は1か月ごとに(6,000株−1,200株)÷(4年×12か月)=100株与えられる.5年後満期になると5,000株すべて行使できる権利を引き受けることになる.買う権利を行使するには,6,000株×$0.25=$1,500を会社に支払い,実際の株を買うことになる.最近は株券は発行されず,証券会社の口座を通じてすべての取引が行われる.その後,会社が上場した際,株の額面が$20になっていると,6,000×$20−$1,500=$118,500,約1,000万円を丸儲けしたことになる.

 スタート・アップが上場せず,ほかの会社に買収される例も存在する.同業者であるとか,同じ市場で存在する大手企業が買手になるわけだ.株式上場するには,市場関係者を納得させる材料が必要だが,スタート・アップで「研究開発のレベルは高いが,販路がまだ確立されていないケース」などの場合,大手企業に買収されたほうがさまざまな理由で有利な場合がある.この場合,ストック・オプションが買手企業の株に変換されるケースが多い.株を交換するほうが買収する企業のキャッシュ・フローには有利なケースが多いからだ.


株式市場で現金化


 上場するか,買収されるか,いずれのケースも証券会社を通じて売却できる株…つまり流通されている一般公開株になってからが肝心だ.上場していない企業の株券やオプションは譲渡したり現金化することが非常に難しく,一般の人にとってこの手の取引は不可能に近い.よって,自社が上場して上場企業になり一般公開株が流通するか,自社株が上場している企業に買収されて一般公開株に交換されなければ意味がない.その後は,社員の判断でいつ売却・現金化を実行するかがポイントとなる.

 もちろん株式市場により,一般投資家や機関投資家…株に投資する(買う)人…の興味をそそるような業績を上げたりすることが肝要となる.しかし,株式市場の動きは予想できないことが多いので,会社の努力だけではどうにもならないことが多い. 特にハイテク関連はまとめて評価されるので,あまり直接関係のない会社の業績が悪いと自分の会社の株にも影響がおよび,大幅な売り注文が入ると下落することがある.たとえばミドルウェアのソフトウェアの会社が上場しても,半導体企業の業績に株価がある程度影響されることがある.


健全なIPOはシリコンバレーの健康を示す


 今回のGoogleのIPOに大きな興味があるのは,シリコンバレーの健康度を示すからだ.IPOが続かなければ新しい起業や新しいアイデア,そしてエンジニア達がシリコンバレーに集まらなくなるといえる.

 シリコンバレーの大型IPOの連鎖作用は計り知れないほど大きい.投資家の興味レベルが高く,積極的なIPOだと,ほかの投資家もハイテク関連の銘柄に注目したり,市場のハイテクに対する態度を積極的な方向に変えるからだ.また,今回のGoogleのIPOが成功すると,ほかのシリコンバレー企業やハイテク企業でIPOを控えていた企業が再度IPOに向けて活動を復活させたりする.IPOに成功した会社は,集めた資金で新たな製品開発の大型投資を行ったり,必要な場合はほかのベンチャを買収するケースが多く,地元の雇用が増えたり,シリコンバレー外の拠点での増員が進んで多くのエンジニアが雇われることになる.ちなみに,今回のGoogleも集めた資金で企業を買収することが噂されている.

 次に,ベンチャ・キャピタルやエンジェルなど,ベンチャ企業に初期のころにリスクを背負ってスポンサになった投資家達が資金を回収できる.ベンチャ・キャピタルもこの大型なキャピタル・ゲインを目的に投資を続ける.よって,その収益でまた新しいベンチャ企業を求めて投資を続け,ベンチャ企業に資金が潤う.一方,個人であるが,初期のころからベンチャ企業でがんばってきた社員も同じで,やっと金銭的な恩恵を受けられる.これで,もちろん個人消費も増え,シリコンバレーの地元景気に恩恵をもたらす.

 また,多くの社員は「二匹目のどじょう」を求めて違うスタート・アップに行くなり,自分で起業を試み,スタート・アップを起す人が多い.もっと大金持ちになった個人は,自分でエンジェルのような個人投資家になるケースもある.これらの「二匹目のどじょう」を狙う人達は,エンジニアや技術職に就く人以外にもいえる.スタート・アップで実務経験を積んだ人達は,一度リスクを背負って仕事をしてきているし,だいぶ度胸ができる.特に初期のころから仕事をしてきた人達はいろいろな仕事を兼務することが多いのでかなり内容の濃い経験を積んでいることになり,ネットワークも広い場合が多い.特にベンチャ企業の設立のノウハウやコネなどはスタート・アップでの仕事によって手っ取り早く身に付けられる.このようにIPOを通じて起業のサイクルが一回りして元に戻ることになり,新たな起業へつながるチャンスが広がる.これにより,さらに投資基金が集まり,アイデアを持った人達もシリコンバレーを拠点に起業を試みようとする.

 つまり,IPOはシリコンバレーの起業サイクルを完結させる起爆剤であり,シリコンバレーでの新陳代謝を促す重要な役割を果たしている(図1).


〔図1〕シリコンバレーの起業サイクル

 伝説になってしまった話だが,ストック・オプションのことをあまり良く知らなかった社員が,ボーナスや昇給の代わりにストック・オプションをもらい続け,会社を引退するころにすべてのオプションを行使したら$100万以上になっていたという話がある.この社員がエンジニアとか実務ではなく,受け付けとか用務員のオジサンみたいな仕事の場合にはもっと衝撃的なニュースとなる.この手の話を聞くと,だれでも一攫千金の夢をつかむことができるのでは?と思ってしまう.エンジニアや上層部の人間でなくてもストック・オプションの恩恵を受けられる一種のアメリカン・ドリームのチャンスとしてシリコンバレーの夢はいいなぁ〜と,みんな思うのである.


Column IPOのしくみ

 株式上場(IPO)は一般投資家と接する初めての機会となり,会社が公の場でデビューする舞台でもある.上場前の企業は財務や業績情報の公開が義務付けられていなく,シリコンバレーのスタート・アップの初期は,数四半期に渡って赤字を出すのが当たり前だ.しかし,株式が公開された時点で市場関係者に細かく説明をする義務が発生する.

 株式上場のプロセスは複雑で,多くの金融や法律の専門家の手助けが必要となる.まずはSEC,アメリカ証券取引委員会に上場する主旨の書類を作成し提出するが,これには会社の財務状況や売り上げ状況を細かく報告した監査報告の提出が必要になる.

 実際の株式市場と会社の間を取り持つのは,インベストメント・バンク(投資銀行)と呼ばれるタイプの銀行になる.投資銀行はIPO全体の約20%を手数料として受け取るので,銀行側としては大きな収入源でもある.IPOを行うためには,最低$2,500万の年間売り上げが必要だ.会社の評価額はさまざまな算出方法があり,投資銀行が中心になって算出を行う.目安は最低年間売り上げの2倍から3倍がスタート額となる.つまり$3,000万年間売上げの会社だと,$6,000万〜$9,000万程度の評価額となる.多くの場合は,IPOで総株数の20〜40%を市場に売り出すことになり,額面が通常のケースだと$10から$20の間が好まれるので評価額と額面に応じて市場に売り出す株数を調整する必要がある.また,競合や同業者がすでに市場に存在する場合,その会社のPEレシオを参考に会社の評価額を算出する場合が多い.いずれにせよ,18か月から24か月きれいな右上がりのカーブで売り上げが伸びていなければIPOの候補にはなれない.

 書類や届出が整うと,新しく発行される会社のProspectusと呼ばれる趣意書が作成され,これには細かく会社のビジネスやリスクについて,素人やハイテクの門外漢でもわかるように説明している.株主訴訟を起されては困るのでかなり細かく書かれている.このProspectusと共に投資銀行は,自社のコネのある機関投資家などへ売り込みを行い,購入の興味レベルを測る.この売り込みは,アメリカの大都市で行われたり,必要な場合はロンドンなど主要なヨーロッパ都市でも行われ,ロードショーと呼ばれる.ロードショーが終わると最終的なProspectusが発行され,SECに正式に提出され実際に株式市場で株の取引が行われる.投資銀行側で大型顧客に割り当てが決まっているので,証券会社に相当なコネがないと人気のあるIPOに個人でオープンの日に参加することは難しい.インターネット・バブル時には,これが不正や不祥事につながったりしたので,いまだにIPOや大手投資銀行を警戒する投資家も多い.今回のGoogleのIPOは投資銀行を通さず,会社側でインターネットを使った入札を行って株価と発行部数を決めるというユニークな方法を取っている.Google側では,この新しいシステムにより公正なIPOをめざしたいとしている.個人でも$2,000さえ口座に入金すれば参加できるシステムになっており,このユニークなシステムも今回のIPOの興味をそそる一つの大きな理由となっている.






トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 


copyright 1997-2004 H. Tony Chin

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Engineering Life in Silicon Valley
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