コンピュータの誕生からプロセッサの発展まで
マイクロプロセッサの歴史

はじめに

 そもそもマイクロプロセッサ(MPU)とは何なのだろうか.多くの人は,MPUがMicro Processing Unit(小型処理装置)の略語であり,コンピュータの中心的な動作を制御するLSIであることを知っている.その意味でCPU(Central Processing Unit:中央処理装置)と呼ばれることもある.本特集では一部を除きMPUと呼ぼう.

 では,なぜMPUに8ビット,16ビットあるいは32ビットという種類があるのか,なぜ16ビットMPUよりも32ビットMPUのほうが処理性能が優れているのか,という点について知っている人は意外に少ないのではないだろうか?

 これをひもとくには,まず大型計算機の歴史から振り返ってみる必要がある.歴史を探ることで,MPUの未来もおのずから見えてくるのではないだろうか.

コンピュータ(計算機)という発想はいつから?

 計算の機械化は古くから考案されてきた.16世紀にフランスの数学者のパスカル(Blaise Pascal)が考案したパスカリーヌ(Pascaline)をはじめとして,ドイツの数学者のライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)がパスカリーヌを拡張した計算機を完成させている.

 現在の感覚に近いコンピュータを最初に構想したのは,19世紀のイギリスの数学者であるバベッジ(Charles Babbage)といわれている.彼は1819年頃から,高信頼度の数表を階差法により作成する歯車式の階差機関の作成に着手した.1832年には試作機が作成されたが,政治的な理由で階差機関の開発は成功しなかった.その直後,階差機関の計算能力を上げる目的で,バベッジは解析機関を発案した.その複雑なメカニズムを実現するために,データ(記憶領域)と演算を分離することが考えられた.データから独立した演算器は,一連の指令(プログラム)を与えることで,種々の計算に対応できた.これがプログラム制御のはしりである.階差機関は階差法という計算に特定された専用マシンであったが,解析機関はある程度の汎用性をもっていた.これをもって解析機関を最初のコンピュータとみなす向きもあるが,プログラム内蔵方式ではなかったし,条件分岐機構をもっていないという意味では,コンピュータでないという意見もある.

 その後,バベッジの業績は何人かの研究者に受け継がれたが,どれも試作程度で終わっている.バベッジ以後,1940年代までコンピュータ開発の表立った動きはなかったというのが定説である.この期間は100年の空白といわれている.

 もっとも,これは米国中心の史観である.実際には,1930年代に機械式やリレー式がドイツのツーゼ(Konrad Zuse)らによって研究/試作され,またシュレイヤー(Schreyer)やアタナソフ(John V. Atanasoff)らが真空管方式によって開発を始めている.ツーゼのコンピュータは「Z1」,アタナソフのコンピュータは「ABC」として歴史に名を残している.

 チューリング(Alan Turing)は1936年にチューリングマシンに関する論文を発表し,これが現代コンピュータの基礎理論となっている.チューリングもまた,第二次世界大戦中に暗号を解読するための「ボンベ」というチューリングマシンを応用した機械(コンピュータの原点)を開発している.ボンベはリレーを使用していたが,真空管を使用した電子計算機もチューリングの提案で開発された.これも暗号解読用である.

 リレーは電磁石でスイッチをON/OFFするものだが,電気で同様の処理を行う真空管を使用すると1,000倍近い計算速度を得ることができる.これは1943年にCOLOSSUSという計算機として実現している.また,これはイギリスの話であるが,アメリカでも同時期に真空管を使用したENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)という計算機が開発されていた.ENIACは実戦には間に合わなかったが,COLOSSUSは戦時中稼動していた唯一のコンピュータとして後世に名を残している.それは戦後も30年にわたって諜報活動に活用されるが,当時は機密事項として関係者が知るのみであった.

アタナソフのコンピュータ−−ABCマシン

 1970年頃までの定説では,世界最初のコンピュータはモークリー(John W. Mauchly)とエッカート(J. Presper Eckert)およびゴールドスタイン(Herman H. Goldstine)によって1945年に開発されたENIACということになっていた.その説に一石を投じたのが,1937年からアタナソフとベリー(Clifford E. Berry)の開発したABC(Atanasoff-Berry-Computer)マシンである.これは,ガウスの消去法を想定した真空管式の計算機で,1942年にはほとんど完成していたといわれる.現在では,このABCマシンこそがENIACに先立つ世界最初のコンピュータといわれることが多い.

 もともとアタナソフの業績は世間から忘れ去られていた.それを白日の下に引き戻したのは,1960年代に始まった,ENIACの基本特許に関する係争である.この裁判でENIAC特許が無効になったが,その根拠の一つとしてモークリーがアタナソフからENIACの基本原理を得ていたということが挙げられた.事実,1941年にモークリーはアタナソフを訪問してABCマシンを見学していた.かくしてアタナソフの名前は一躍クローズアップされることになる.しかし,ABCマシンは29変数までの連立一次方程式の解法機にすぎず,プログラム内蔵という観点から見てもコンピュータと呼ぶにはふさわしくない.

真空管のコンピュータ

 初期のコンピュータは,人間が手計算でやっていてはとても終了しないほど多量の計算を高速に行わせるために開発された.昔はそれほどの需要があったわけではないが,第二次世界大戦の頃になると大規模な計算の必要性が顕在化してきた.その主たる用途は軍事目的であったことは否めない.

〔写真A〕ミシガン大学に展示されているENIAC(写真提供:近藤和彦氏)

 現在のコンピュータのはしりは1945年にペンシルバニア大学で作られたENIACといわれているが,これは大砲の弾道計算をするために作られたコンピュータである.その処理能力は現在のコンピュータと比べてはかわいそうなくらい低く,どちらかというとプログラム電卓といった感が強かったようだ.ENIACは,ある程度のプログラムを内蔵することもできたし,条件分岐機構ももっていたので,最初のコンピュータという栄誉を受ける資格は十分にある.ただし,これを主張する学者はCOLOSSUSの存在を無視しているようにも思える.ただ,COLOSSUSは暗号解読専用という観点から,汎用コンピュータとは認めてもらえないのだ.

 1989年,米国のスミソニアン協会がアメリカ歴史博物館でコンピュータ開発の歴史展示を試みたとき,コンピュータの発明者はモークリーとエッカートになっていた.それが政治的圧力でうやむやな表現に変更された.その中で,アタナソフは最初のコンピュータを発明したが動作させることはできなかった,と説明されたという.

 ENIACの本体は,30m×90m×3mの筐体の中に18,000本の真空管と10,000個のコンデンサを詰め込んだものである.このため,ENIACを設置するためにはまるまる一部屋分のスペースが必要だった.また,多くの真空管を動作させるために機関車並みの電力が必要だったという.それでも,電気式の真空管を使用するため,計算機の処理能力は機械式のリレーに比べて飛躍的に向上した.しかし,真空管を使っているために「図体がでかい」,「熱い」,「壊れやすい」というのが当時のコンピュータの常識だったようだ.この真空管の問題を何とかしない限り,コンピュータの発展はありえなかった.

フォン・ノイマンに対する誤解

 フォン・ノイマン(Jhon von Neumann)は,今日のコンピュータアーキテクチャの基礎を創造した人物として広く知れ渡っている.事実,プログラム内蔵を基本とする今日のコンピュータは「ノイマン型」といわれている.しかし,これはモークリーやエッカートの名誉を著しく傷つけるものである.

 1944年の初め,ENIACの設計が始まってから18か月が過ぎた頃,フォン・ノイマンはゴールドスタインと会う機会を得た.そこで,フォン・ノイマンはゴールドスタインが関わっていた現在進行中のENIACの計画に非常に興味を覚えた.当時フォン・ノイマンは,原子爆弾を開発するマンハッタン計画の顧問をしていたが,この戦争に役立ちそうなコンピュータのことは知らされていなかった.これは,ENIACのスポンサーともいえる国防研究委員会(NDRC:National Defense Research Committee)がENIACを信用しておらず,取るに足りないものと考えていたからである.しかし,フォン・ノイマンは非常に興味を覚え,1944年の9月にENIACの開発現場を訪れ,ENIACの秘密情報へのアクセスが許された.

 さて,ENIACにはプログラミングが難しい,メモリが少量しかないという欠点があった.関係者の多くはENIACの完成のかなり前から,後継機種のEDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer)の議論を始めている.そして,1945年3月,フォン・ノイマン,モークリー,エッカート,ゴールドスタインらがEDVACの設計に関して議論した記録が,いわゆる「EDVACレポート」として,フォン・ノイマンの単独名で,機密事項であるにもかかわらず,世界のコンピュータ技術者の間に広く流布された.フォン・ノイマンがEDVACの設計に参加する前にプログラム内蔵方式は考案されていた.しかし,この文書により,フォン・ノイマンがプログラム内蔵方式のコンピュータの発明者として誤って伝わってしまったのである.フォン・ノイマンは発明者ではないが,プログラム内蔵方式を論理的に明確にして発展させた業績は認めるべきであろう.

 EDVACは,関係者間の意見の対立により大幅に開発が遅れ,頓挫してしまう.一方,フォン・ノイマンはプリンストン大学で新しいコンピュータの開発を指導することになる.そんな中,世界最初のプログラム内蔵方式のコンピュータとしての栄誉を勝ち取ったのは,EDVACの影響下にイギリスのケンブリッジ大学でウィルクス(Maulice Wilkes)により製作され,1949年5月に稼動を始めたEDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)である.この名称はEDVACを意識して付けられたという.なお,ウィルクスはマイクロプログラミングの提唱者としても有名である.

 さて,これ以後も計算機の試作は星の数ほど行われ,IBMなどの大型計算機やスーパーコンピュータの開発へとつながっていくのだが,その歴史を追うことは筆者の意図ではない.今後はマイクロプロセッサの進歩を主として見ていこう.

トランジスタが登場した!

 コンピュータにとっての朗報は,1947年も終わりに近付いたクリスマスの2日前に訪れた.ベル研究所のウィリアム・ショックリー(William Shockley),ジョン・バーディーン(John Bardeen),ウォルター・ブラッテン(Walter Brattain)によってトランジスタが発明されたのだ.言うまでもなくトランジスタは,半導体産業において20世紀最大の発明である.トランジスタは真空管と違って熱をもたないし,壊れにくく,真空管より高速に動作する.そして,サイズが小さいのがなによりの利点だった.このトランジスタは,ラジオや補聴器など多くの電子機器の中心的デバイスとして確固たる地位を築いていくことになる.

 当然,トランジスタを用いたコンピュータも作られた.FORTRANやCOBOLといった高級言語のコンパイラが登場したのは,トランジスタのコンピュータが全盛になる1950年代の後半から1960年代にかけてのことだった.この時期の代表的なコンピュータとして,IBMの7070や7090がある.まだ,マイクロプロセッサは誕生していない.

 さて,トランジスタを用いてコンピュータを作る場合,最大の問題点は回路規模が大きく複雑であるということだった.数百ものトランジスタやコンデンサをハンダ付けしていく作業は人間の手によっていたが,それでいて十分な信頼性を得るのは至難の技だった.その障壁を乗り越えてコンピュータを作ったのだから,当時のコンピュータメーカーの頑張りには脱帽する.しかし,力まかせに作るコンピュータにはおのずと限界がある.人類には理論的には可能であっても,実装技術の未熟さゆえに到達できない夢がいくつもあったのだ.

インデックス
◆コンピュータ(計算機)という発想はいつから?...
集積化の時代...

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