● はじめに
 筆者が初めて台湾に行ったのは、1998年6月のComputexTAIPEIでした。その時は右も左もわからず、日本の貿易会社に勤める友人と台湾に行きました。台湾についてすぐ、空港からホテルに向かい、英語が通じないのでほとんどホテルから出ることもなくComputexTAIPEIの会場とホテルとの往復だけとなりました。また友人と現地で集合した東京の友人たちとともに、ホテルの近辺を散策し百貨店でGショックを買ったぐらいという事情でした。
 その時の唯一の救いともいえるのが、CQ出版社の小森さんと偶然出会うことができたことで、彼がいろいろと案内してくれたことだったのです。台湾の第一印象はとても良いもので、筆者の生まれた大阪とどこか似ているところもありました.これは悪い意味ではなく日本の25年くらい前といったほうがいいかもしれませんが、そのころの日本のいいところを持っていながらエリアによっては例えば世界貿易センターなど超近代的なビルや設備が同居しているコンピュータ好きの人間にとってはたまらない観光と,コンピュータとの協議を両方満たすことができるユーザーフレンドリな町であったとうものでした。


 その後、何とか台湾に行きたいと思いつつ、1998年を迎えてしまいました。この間CQ出版社では、創刊バックオフィスマガジンの創刊などにも伴い、筆者自身のCQ出版社での仕事もそういった意味で少しずつPCからシフトとしていったというところも影響があるかもしれません。
 しかし、台湾に行きたいという気持ちと、そして台湾にメールだけで話をする台湾コンピュータ企業の何人もの知り合いが、そしてなんといっても台湾でできた親友ナンバーワンといえる台北市コンピュータ同業協会(TCA)の対日貿易促進センター(IPPC)のMasa氏なども当時はまだ顔を知らない状態でしたが、台湾に来ればということもあり、吉田編集長にお願いして単独でとにかく取材を敢行したというのが1998年2月のことです。
 この時、筆者はASUSTeKやGIGABYTE、RISE、EPoX、FICなど複数の企業を回り、単に取材であるというだけではそのような対応であった企業もいくつかありましたが、ほとんどの企業は筆者を一人の友人として迎えてくれ、親切に商品の説明などをしてくれたものです。この時の経緯は、1998年4月発売のTRY!PC誌に掲載しました。


 さて、その2月以降筆者は、まだまだ訪問する企業があるという認識と、そしてすでに友人になってしまったMasaの強い勧めもあり、より多くの企業を訪ねてみるということと、2月の訪問で特に強い印象を受けた、結局OEMという台湾企業の製品を、例えば日本の企業が購入して日本企業の自社ブランドとして売るという販売形態や、ODM、例えば日本の会社が台湾企業に設計までお願いして製品を作ってもらいそれを日本企業のブランドで売るといったことが非常に多く行われている、という事実を知ったのです。
 この現象を問題にする前に、ひとつだけ重要な点を押さえておかなければなりません。もちろん、この点について重要なことは、いま日本に存在する、いやワールドワイドに存在するPCのほとんどは中身が台湾製であり一1部は台湾企業の中国工場で組み立てている場合があっても台湾というものが、現在のPC産業の中枢にあるといっても過言ではないという現象なのでます。設計がアメリカで行われることもありますが、実際には、製作は台湾、工場は中国といったようなことが生じてくるのです。

 さて、わが国ではパーソナルコンピュータが筆者たちの前に登場して以来、英語だけを扱うのならよかったものの、ひらがな、カタカナ、漢字までも表示しなければならないという要望から、IBM社のPC/ATがわが国で普及するということは、工業用の分野であるとか理系の学生理系の学部を出た人たちによって主に行われてきたと言ってもいいでしょう。文系の人たちにとってコンピュータで最もやりたいのは、ゲームとワードプロセッサなのです。
 さまざまな企業からいろいろなコンピュータが、例えばNECではPC6001、SHARPのMZ80など、さまざまなパソコンが生まれました。その中で生き残ったのが、NECのPC-9800シリーズだったのです。
 当時はコンピュータの処理も遅かったので、ハードウェア上に漢字ROMを搭載し、日本語を扱えるようにしたものです。最終的には、ソフトウェアの充実といったこともあり、このNECのPC-9800シリーズが我が国で多くそして長く使われるようになりました。IBM PCは仕様を公開したため、多くの互換機メーカーが発生し、特にその中でもCOMPAQがかなりの主導権を持って互換機を進めていきました。IBM社も独自路線を出そうとPS/2などを出しましたが、結局はPS/2も基本的にはPC/ATと同じという線に落ち着いていき、IBMクローンまたはPC/ATという名前で多く出てくるようになったのです。
 NECのPC-9800シリーズを使っている状態では、古いPC-9800シリーズはCバスと呼ばれる拡張バスを持っており、このCバスに対応したカードは当然PC/ATには使用できません。そこで、日本の周辺機器メーカーであるアイ・オー・データ機器やメルコは独自で開発して日本で組み立てるか、場合によっては、これは把握したわけではありませんが設計を日本でする、もしくは台湾企業にODMを頼むといったことを行ってコストを下げるということはできたものと思われます。
 CPUの性能が上がり、DOS/Vと呼ばれるソフトウェアで漢字を表示するOSが開発されたことから次第にPC/ATが脚光を浴びてきました。
 なぜなら、世界にはピンからキリまで、値段の安いものから高いものまで、また、メインボードやメモリ、ハードディスクなどを自分で購入して組み立てるというDIYの文化が存在しました。これが、一挙に入ってきたのです。今から3,4年前の話です。もっとも、その前にもDIYをしていた一部のパワーユーザーはいますが、一部のパワーユーザーよりはおそらくMSXなどの規格のパソコンを使っていた人が多いでしょう。
 PC/ATが普及するきっかけとなったのは、結局DOS/Vとその後に続くWindowsです。Windowsであるならば、たとえPC/ATでも、漢字ROMを搭載したPC-9800シリーズでも結局漢字はソフトウェア上の、フォントはソフトウェア的に表示するわけですから、言い方を変えると漢字ROMがあってもなくても表示速度は同じということですから、PC/ATのほうが周辺機器が安い分だけ有利ということになります。メルコもアイ・オー・データもコストダウンを図るため台湾メーカーからOEMとしての供給を受け、そして周辺機器を販売する、ということも行うようになりました。
 今やWindows 98、Windows NT 4.0/5.0の時代となり、Windows 2000などという言葉が叫ばれている今、PC/ATは世界中のパーソナルコンピュータといっても過言ではない状況になりました。すなわち、多くの台湾企業の製品がどんどん日本に入ってくる素地がここ2,3年で非常に高まってきたものと言えます。4年や5年前に、展示会の紹介をしても日本のPC-9800シリーズで動かないのだからほとんど意味がなかったのですが、その状況が変わってきたということが言えるのです。2月の台湾訪問の時、そのようなことを考えていました。

 その後、台湾に多くの友人ができた筆者は、そしてまた、CQ出版社の皆さんの協力により、台湾の広告代理店の方とも知り合いになり、もう一度台湾に行きたいという気持ちがつもり結局その後4月5月6月7月8月9月10月11月12月と、月によっては二度も毎月台湾に訪問することになったのです。この間、非常に多くの人と知り合いとなり、多くの友達もできました。
 しかし、台湾に行くといろんな企業を尋ねたり、友人と話をしたり、工場を見学したりと本当に楽しい日々が続き、いつの間にかTRY!PCの季刊化という現象もあってか筆者はTRY!PCに原稿を書くということをいつの間にか忘れてしまったような気がします。
 この間、本当に多くの方にお世話になりました。特に、IPPCのMasa氏そしてASUSTeKコンピュータのAndrew Tsui氏、TekramテクノロジのY.J.Tsai氏そしてLeadtekのJoseph C. Lin氏・Michael Lee氏、PROCOMPのアンブローズ氏、そして、何よりも忘れてはならないのが、筆者が台湾で生活をするのに非常に大きな力を貸してくれた、今では生涯の友といえるJordan Huang氏です。
 また、9月まではホテルに泊まっていたのですが、ホテルで生活するのは休息や睡眠には便利ではあっても、インターネットに接続したりして、メールを受信したり送信したりまた、Webページを閲覧したりするには非常に不便なものがあります。また、通常は朝10時から掃除が始まるので、部屋を空けなければなりません。ドント ディスターブの札を掛けておけばよいのでしょうが、そうすると掃除をしてもらえなくなります。
 といったわけで、ついに一大決心をして10月から台湾で部屋を借りて住むことになりました。毎月台湾に行っていろんな企業に行きながら次第に台湾のことにも詳しくなり、台湾語もある程度わかるようになったが、自分は自分を思い返してみると今年の2月のことが本当にうそのようです。
 2月の時は、CKS国際空港に到着しても、どうやってホテルにいっていいかわからないような状態でしたが、今は自由に台北市内をバスで移動し、バスだけで自分の部屋に帰ることができるようになりました。現在の筆者は、一月の3分の1を台湾、3分の2を日本、多いときには1月の半分は台湾という生活ですが、台湾の部屋にはコンピュータを設置し、またプロバイダにも加入して、台湾でいつでも日本のオフィスにいるのと同じ環境でビジネスを行うことができるようになりました。本当に驚きです。


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