第23回

〜対談編〜

八木さんとは,いつも仕事,仕事以外を問わずいろいろな話をしているわけですが,今日はぜひ,日本のエンジニア達が興味をもちそうな話をしてください.まず,八木さんの経歴ですが,日本でサラリーマンを辞めて,日本に帰らないつもりで家族を連れてシリコンバレーに来られたわけですよね?

今から十数年前の35歳の頃ですが,このままボヤッとしていても「課長さん」になれるのかなーと思うと焦りを感じました.とにかく,自分の知識だけで技術者として十分やっていける「本物のエンジニア」に憧れていました.まぁ,最近は変わってきているでしょうが,私がまだ日本でサラリーマンをしていた頃は,課長・部長という役職が一種の名誉職だったと思います.だから,このままミスを犯さずに…といったチャレンジのない職場に対して大いに不満があったと思います.また当時,私は首都圏にいなかったので,情報量も設備も乏しく,自分の環境以外のエンジニアはどういう仕事をしているのか知りたかったのです.そういう意味で当時の私にとってシリコンバレーは,「エンジニアの花の都」でした.日本でも,たしかに情報だけはたくさんストックしている人達がいました.しかし,どうも私には,聞きかじりでまだ自分のものにしていないといつも感じていました.出張などでシリコンバレーに何度か来るうち,シリコンバレーで会うエンジニア達は,自分が考えていた「本物のエンジニア」に近い感じがして,だんだんこちらで仕事をしてみたくなりました.

今回のゲストのプロフィール

八木広満やぎ・ひろみつ

 1949年大阪生まれ,1974年大阪大学通信工学科修士卒.10年間の日本企業勤めの後,1984年にシリコンバレーのサラリーマンエンジニアとなる.1988年同地にてDSPチップ設計会社を始め,現在に至る.

八木さんがこちらに来られた頃,私はちょうどUC Berkeleyを卒業して社会に出たばかりでした.バークレーという距離的に車で1時間半しか離れていないところでも,電子工学部や情報工学部にいる学生達にとって,シリコンバレーは憧れの町でしたね.最近ではインターネットなどで,情報だけは日本でも瞬時に得ることが可能になりましたが,今でも「花の都」だと思いますか?

エンジニアのオリンピック

う〜ん,やっぱり根元がすごいと思います.情報の流れについては,日本は日本なり,こちらはこちらなりの流れがあります.ただ,根元のレベルからいうと,こちらのほうが遥かに層が厚いと思います.学位がすごい人とかもいるわけですが,そういう学位に関係なく,とにかく才能のある人がコンスタントにいるという感じです.また,人と接することが非常に大切で,そのネットワークでまた新しいアイデアや情報が生まれていると思います.

そうですね.私は基礎研究を主眼としたこちらの大学を出ましたが,実用レベルのことは自分で見つけろという感じでしたね.しかし,基礎的なことは徹底的に叩き込まれます.大学3年生に上がると専門コースが増えますが,ある教授がクラスの初日に「これから教えることは,君たちが2年後ぐらいで卒業する頃には古すぎて使いものにならないかもしれない.だからエッセンスをしっかり学ぶように!」と言った記憶があります.情報を生き物として捉えろ!ということでしょうか?あとはご指摘のとおり,人とのネットワークが強く,これはインターネットがあろうとも実際こちらに来ないとわからないかもしれないですね. 
私の子供もこちらの中学・高校を出て大学に入りましたが,かわいそうなぐらい高校と大学の差がありましたね.一気にレベルが上がるので,落ちこぼれる人も多いでしょうね.
たしかに要求される学力にはすごい差がありますが,アメリカの良いところは実力主義なので落ちこぼれてもまたトライできるところでしょうか?1年休学してバイトをして学費を溜めてまた学生生活を再開したり,いろいろ融通がききます.
大学のブランドネーム化がエンジニアの分野ではほとんどないですね.たしかに実力重視です.だから,さまざまな国からエンジニアが集まって同じ土俵で力比べができる…… 表現がちょっと変かもしれませんが,毎日がエンジニアのオリンピックみたいな感じでしょうか? 

シリコンバレーでがんばったエンジニアの「その後」が日本とほかの国で違う?

アメリカ国外から来た多くのエンジニアはエリートが多いし,国を背負っているという自負がある人達が多いですよね.土着すると新たに本国から来たエンジニアの面倒をみたりする.自国から来た人達に,自分が体験した苦労をせずに生活できるよう,面倒をみたり“極意”を授けてくれたりします.また,自国に戻って活躍する人も多いですね.

日本人は,自国の人を助けたりすることをあまりしないので寂しいですね.なぜだろう?また,日本には,シリコンバレーでがんばった人の戻る場所がないように思います.
私が大学1年生の頃,初めてシリコンバレーで就いたバイトの上司が台湾人なんですが,ちょっと前にビジネス誌をぱらぱらめくっていると,その方がUMC(United Microelectronics Corporation)の社長になっていることを知りました.私がバイトをしてから数年後に帰国したことは聞いてましたが,びっくりしました.昼食に気の知れた台湾人や香港からの中国系エンジニアを連れて行くのですが,私も皆に可愛がってもらった記憶があります.
やっぱり危機感だとか国益だとかをまじめに考えている人達は,することが違いますね.現在の日本は,私の頃に比べるとエンジニアの環境とかもそろって申し分ないと思うのですが,他の国のエンジニアを見ていると,感覚的に彼らのバイタリティは日本人の数倍はあるように感じます.

言葉の問題は結局,
性格や度胸で克服する

少し話題を変えますが,こちらに来られた頃の苦労話とかありますか?こちらの生活に慣れなかったとか…?
う〜ん,やっぱり言葉にいちばん苦しみましたね.言葉ができないと意志疎通ができず,いろいろなトラブルに巻き込まれる可能性があります.これがどんどん自分の行動範囲を狭めていく.

よくあることですが,言葉ができないと皆がやりたがらない仕事をどんどん押し付けられる.とくに日本人や東洋人は黙って仕事することが美徳だと思っているから,ついつけこまれる.

私は,英語をしゃべることが歯医者に行く感じでしたね.始めの頃は,まわりの会話にまったくついていけませんでした.それでスラスラ英語をしゃべる人のところには,同じように賢いエンジニアが集まるわけです.こういう場で新しいアイデアの交換やエンジニアとしての存在感を確認していたのだと思います.

こちらの教育では表現力がすごく重視されます.

私はある時期,日本の企業の担当者として勤めていました.アメリカ人の秘書を雇いましたが,すぐ辞めてしまいました.給料も環境も悪くなかったはずです.私が思うには,まわりにまともに英語をしゃべる人がいなかったので,それが苦痛だったのでしょう.

それで結局いつ慣れました?猛勉強とか?

勉強の余裕はまったくありませんでした.初めて入った会社で6ヵ月後にレイオフがあったとき,やっと開き直れました.そういう意味で英会話は,技術でなくて性格や度胸だと思っています.私が知っている海外のエンジニアーーロシア人,中国人,ベトナム人とかは,みんな英会話教室など行ってませんね.せいぜい基本的なことをちょっと覚えて,あとはこちらに来てから度胸で覚えているようです.
たしかに議論をしたり,プレゼンテーションをしたり,プロポーザルを書くといった能力は英語力の問題にも見えますが,本質は表現力ですね.そういう意味で,性格などが結果的にシリコンバレーで通用する英会話力に影響すると思います.

議論の場での苦労

そうそう,議論の中で相手のまちがいを指摘するのに相当苦労した記憶があります.隣のオフィスにいた,大学でたての新人エンジニアとひょんなきっかけで議論をはじめたのですが,私の英語力不足のおかげで,EPROMの原理を私に教え始めたわけです.それも一生懸命,丁寧に.こちらはすでに10年ほどの実績・経験もあるので彼の説明のまちがっているところまで見えているのですが,英語力のハンデでどうしても反論できず,非常に情けない経験をした思い出があります.
私も似たような経験があります.新人エンジニアにつかまえられて逆に説明されるわけです.学生時代に議論することを日常的にやりますから,それがスポーツ化してしまうのでしょうか?だから1を言われたら10倍ぐらいに返して言う必要があります.

「技術」で永住権を獲得する

私のその後の職場は,サイリンクという,今では有名なハードウェア暗号器の会社でした.スタートアップだったので人数も少なく,私だけがICのエンジニアだったので大事にされた.ちゃんとICの専門家として迎え入れられたのでじっくりと仕事ができたし,シリコンバレーの環境にどんどん慣れてこれた.ほかの専門の外国人エンジニアもたくさんおり,会社を通じてグリーンカード注1を得られることを知った.2年ほどの“お礼奉公”でグリーンカードが取れるとは,つくづくすごい国だと思いました.

注1:俗にいわれるアメリカの永住権

         

対談を終えて:
 八木氏は,筆者が社会に出たての頃,初めてお付き合いしたお客だった.当時,筆者は老舗ASIC企業でOJT(On the job training)の最中で,数ヵ月後には東京に送られる予定だった.お会いした当時から,「エンジニアとはこういうもんだ!」と口酸っぱくいろいろなアドバイスをいただいた.現在に至るまで「本物のエンジニア」にこだわり,会社を経営しながらも一生現役エンジニアを目指す姿は,本物のシリコンバレーエンジニアといえるかもしれない.

 トニー・チン htchin@attglobal.net
WinHawk Consulting

 



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 copyright 1997-2000 H. Tony Chin

 

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