第60回
超遠距離通信とソフトウェア無線

 筆者が高校生だった時代はアマチュア無線が全盛で,ハム,BCL,オーディオと,理系趣味が若年層にも定着していた.受験勉強よりも無線機の出力を上げられるか,ラジオの感度が上がるかを考えていたものである.

 無線遊びの達成感はどれだけ遠くに電波が届いたか,遠くの局の電波が受信できたかということで,HF帯(3MHz30MHz)では条件が良ければ10W程度の出力でも地球の裏側まで電波が届くこともあるから面白かった.しかし,そういった遠距離通信は時間や電離層の状態がうまく整った時にできるということであって,確実に通信できるものではなかった.遊びとしては偶然性も大事なことだが,業務となると偶然の通信では使える用途が限られてくる.そのようなわけで有線ネットワークが全地球規模で整備された今では,無線通信の出番はアクセス・ポイントと端末を結ぶところとなっている.だから最近の無線通信の話題は近距離の高速通信が中心で,長遠距離通信のためのディジタル無線通信方式の話題があまり聞こえてこない.

 最近の無線通信の技術革新といえばソフトウェア無線,つまりディジタル信号処理による高機能受信システムであるが,超遠距離通信についてもソフトウェア無線で新しい応用が生まれる期待がある.

ボイジャー1号はまだ生きている

 遠距離通信といえば宇宙空間となるが,中でも1977年に米国が打ち上げた惑星探査衛星ボイジャー1号は既に太陽系を脱出して太陽から約104天文単位(1天文単位は太陽と地球の間の距離)のところにあり,その信号は今でも地球で受信できている.電波の受信強度は距離の自乗に反比例するので,104天文単位の距離からの受信信号は太陽に置かれた送信機からの信号の1万分の1,つまり40dBのレベルである.送信側は30年前の技術で固定されているから特殊なものではなく,単純な位相変調でディジタル信号を載せているだけだと思われる.そんな古いシステムなのに,今でも画像まで送れるということはなかなか感動的でもある.

 ボイジャーの通信システムには何か秘密があるのだろうか? NASAのホームページにはボイジャーに搭載されている通信システムの概要が書かれている.その通信速度はアップリンクが2GHz帯で16bps,ダウンリンクが8GHz帯で160bpsと1.4kbpsとなっている.それを受信するシステムがDSN(Deep Space Network)で開口34mと70mの巨大パラボラ・アンテナである.アンテナ利得もすごいが,低ビット・レート通信も星間通信の重要な点である.無線通信の大原則は送信出力P,アンテナ利得G,伝送距離D,信号帯域BSNが,

  SNPG/(BD2

の関係にあるということである.システムが正常に動作するSN比を保証するためには帯域を狭くするという手もあるのである.もちろん,それを保証する理想的なフィルタがあればである.

ソフトウェア無線だからできる理想フィルタ

 低ビット・レート通信は使用する信号帯域を狭くできる.受信信号にはノイズと信号の成分が混在しているが,信号帯域が狭ければそれだけノイズ部分のエネルギを除去でき,相対的に信号エネルギが上がったことになる.通信距離による減衰を狭帯域化で補うことができるのである.星間通信のような超遠距離通信システムは必然的に超低ビット・レートになる.黎明期の遠距離無線通信がモールス信号であったのは,それが数bpsの超狭帯域信号であることも理由の一つなのである.原理的には,どんどん帯域を絞れば微弱な信号も受信できることになる.

 かつてはアナログ回路部品としての狭帯域フィルタも作られていたが,DSPの処理速度が向上してきた今では,理想的なフィルタを計算処理で作ってしまえということになる.それがソフトウェア無線の発想である.

 理想的なフィルタはある周波数だけを通過し,それ以外は全部カットするものである.電子回路では実現不可能なものだが,ソフトウェアならフーリエ変換一発でできてしまう.さらには複雑な符号化方式に対応する柔軟な復調処理もソフトウェア処理で実現できるということで,携帯電話や無線LANの世界は急速にソフトウェア無線化が進んでいるのである.

遠距離通信が作る本物のユビキタス社会

 近未来のユビキタス・ネットワークや低エネルギ社会を考える時に低消費電力の遠距離通信方式があればと思うことがある.今時の無線通信システムは端末からは見えない有線系の高速ネットワークの上で動いている.夢のユビキタス社会も一皮向けば光ファイバと電気エネルギの大量消費に依存したシステム・モデルなのではないだろうか.

 ボイジャー1号が送る104天文単位の彼方からの160bpsの信号が受信できるのならば,通信速度を10bpsくらいまで落とせば,数mW出力で100kmくらい中継なしで送るシステムも,ソフトウェア無線で実現できそうに見える.たかが10bpsで何ができると言われるかもしれないが,その程度でも10分に一度データを送る環境モニタでは十分に実用的な通信速度なのである.

 情報システムが消費するエネルギも無視できない時代になった今だからこそ,定常的なエネルギ消費の少ないインフラレスのネットワーク・システムを社会システムのオプションとして用意しておくとよい.

やまもと・つよし

北海道大学大学院 情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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コラム目次
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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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