第66回

Engineering Life in Silicon Valley

目に見えないシリコンバレーの成功要因


 筆者は,こちらでさまざまな日本人と会う機会がある.多くは,エンジニアやテクノロジ関係の企業で働いている人,エンジニアリングに深く関係のある人(たとえばベンチャーキャピタルや工学部の教授など)だ.いろいろな話の中で,こちらの景気や日本での景気が話題になるが,やはり多いのは「なぜ日本のエンジニアは起業しないのか?」ということだ.日米でそれぞれ勤務経験のあるエンジニア達は,一致して「日本のエンジニアはレベルが高く,純粋なスキルではシリコンバレーエンジニアと見劣りしない」という.そしてここから一歩進み,「それではなぜ日本でハイテクベンチャーがあまり育たないのか?」という議論になり,さまざまな意見が出ることになる.

ビジネスセンスを重視した地域

 このような議論では,まずシリコンバレーの環境的な良さがあげられる.たしかに,UC BerkeleyやStanfordなど,工学部や科学が強い大学が近くにある.起業の種になりそうなアイデアや人材も密集しているかもしれない.また,まわりにスポンサーになってくれるベンチャーキャピタルもいる.このように環境が優れているということで,アメリカ国内や国外でも,多くの場所で似たような要素を取り入れようという試みがあった.いずれも大学を中心とした産学一体となった地域作りだ.日本でも,大学を中心にしたシリコンバレーライクな街作りの例はいくつかあると思う.

 しかし,シリコンバレー以外の場所での試みは,シリコンバレーを越えるほどの大きな成果がまだ出ていない.細かいところでは法律の整備,たとえばアメリカ並みのストックオプションの配布であるとか,ベンチャーキャピタルやエンゼル投資家がキャピタルロスを税金控除額として使えることなど,いろいろな違いがある.筆者の見解では,シリコンバレーには相応のプロが集まりやすく,ビジネスセンスのある人の密度が高いという点を感じる.これは,とくにエンジニアでもただ単にエンジニアリングが優れているのでなく,ビジネスセンスがかなりあると感じられる.もちろん他のプロ,たとえばベンチャーキャピタル,知的所有権の専門弁護士,人事コンサルタント……すべてテクノロジ関連のビジネスにかなりの知識と理解が豊富だし,ビジネスセンスも長けている人たちが多い.

ビジネス的知識を常にレベルアップさせる

 筆者は,さまざまな国のエンジニアと仕事をする機会があったが,シリコンバレーのエンジニアにはたしかに独特の雰囲気がある.とにかく情報収集が好きだし,話題や情報も豊富にもっている人が多い.これはやはりアメリカの職場の環境の特徴なのだろうか.自分のストックオプションや401K個人年金の運営が個人の責任なので,あまりビジネスに興味がなくても,自分の会社の業績や株式市場に敏感になることが多いからであろう.年金や投資信託,そして自分の会社の持ち株会(ESSP:Employee Stock Purchase Plan)など,あらゆる場面で株式市場の知識が必要とされる.少なくとも自分の貯金や財務運営などには必須なので,嫌でも少しずつ身に付けていくようだ.

 それにとどまらず,本格的に興味をもつエンジニア達もまた多い.そして会社の業績を発表しているプレスリリースにしっかりと目を通したり,それによる業界紙やウォール街の反応を細かくチェックすることが当たり前となる.アニュアルレポートの内の財務報告書もしっかりと読めて,経理・財務に詳しいエンジニア達も多い.社外の第三者的存在からの会社の評価や,将来性の情報を集めているわけだ.

 また,たいていのシリコンバレーの企業では,社員にオーナー的精神と運命共同体であるという意識を感じてもらうために,社内に情報をかなりオープンにしていることが多い.社内向けの業績説明会やデータの発表が頻繁に行われる.かなりオープンな会社であれば,この種の情報で自分の仕事と業績がどのように直結しているか,かなり理解を深めることができる.

 以前に筆者の勤めたことのある会社では,だいたい四半期ごとに事業部全員を集めて説明会があった.朝食まで用意してくれて,情報開示以外にその四半期の各部署の社員表彰式の場などに使われており,2〜3時間は使ったけっこうなイベントだった.社員全員が株主なので,ミニ株主総会のような感じで,上層部による質疑応対もていねいに行われる.最近聞くところによると,Webキャストなども使われているようだ.これによって,社内と社外でピックアップできる自社の評価でエンジニア達は自分の勤めている会社について判断することが多い.しかし,矛盾があったり,社外の評価があまりよくないと,やはり転職を考えるという方向に考えが向いていくようだ.会社を辞める/辞めないはさておいて,ビジネス的な基本知識やベースとなる決算書の解読方法などを確実に身に付けられるのだ.

風土的な要素

 まわりの転職のペースも速いので,異なったバックグラウンドの人と仕事をしたり接したりする機会も非常に多い.これは何度もこのコラムでも書いたが,自分のコネやネットワークを作るという点に関しては,非常にパフォーマンスが高い.逆にヨーロッパのように法的なしがらみで,なかなかすぐに辞めたり転職できない環境であると,一つの会社に留まることになる.シリコンバレー以外のアメリカ国内でもそうだ.シリコンバレーは西海岸であるが,東に行けば行くほどなかなかエンジニアは転職しなくなる.これは筆者以外にも感じている人が多い.はっきりとした理由は筆者もよくわからないが,東部では企業の城下町のような都市がまだ多いし,保守的な風土がある.だから日曜日にはちゃんと教会や礼拝にいったり,日曜日には町中のすべてのお店が閉まるという町は,まだ東部のほうでは当たり前だ.長時間勤務したり家から仕事をする場合も多いが,東部では家族中心の生活などもまだまだ多い.シリコンバレーでは,スポーツカーを運転した独身成金が多い.これは東部ではなかなか見られないと思う.

 東部のエンジニアは,一社で勤め上げるとまではいかなくても,しっかりと結果を出してから辞めるというケースが多いと思う.地道に積み上げたスタイルのエンジニア達が多いし,平均的に優秀なエンジニア達が多い.一方のシリコンバレーでは,きっかけやチャンスを重んじて勝負に出るケースが多いようだ.だから引き際も早く,前述の社内外の評価をベースに他のチャンスを求めるという風土がある.まあ,ただ単に腰が軽いともいえるが,扱っている情報量で見ると,同じアメリカでもシリコンバレーは過剰かもしれない.

 結果として,情報収集力,コネ作りやきっかけ作りのパフォーマンスは非常に高いと思う.しかし,大きなデメリットもあり,エンジニアのスキル面ではもともと賢い人は情報を消化していってどんどん賢くなるが,それほどできの良いエンジニアでない人は地道にやるしか純粋なエンジニアリングのスキルがレベルアップしないかもしれない.シリコンバレーではできの良いエンジニアは本当に凄いが,そこそこのエンジニアやあまりレベルの高くないエンジニアも多く,エンジニアの層が厚いといつもいわれている.早い転職のペースは一長一短というところだろうか?

元エンジニアが多い土地柄

 では,ずっとエンジニアリングを続けないエンジニア達はどうなるのか? 多くの場合,他の職種に目覚めてその道をめざすケースが多い.シリコンバレー企業の営業マンやマーケティング関連のスタッフは「元エンジニア」が多い.シリコンバレーにある弁護事務所の弁護士の多くも元エンジニアが多い.純粋な技術系の仕事でキャリアを作り上げるよりも,文系の仕事と融合させたほうが自分の性格に合っていると判断した人達だ.悪い言い方をすれば,「エンジニアくずれ」かもしれない.しかし,元エンジニアで営業をしている人達などは,やはりベースになるエンジニアリングの知識があるので,そこでメリットを発揮する.複雑なシステムを扱ったり,またエンジニアが使うツールや部品を扱うに営業をする場合,当たり前にしっかりとしたエンジニアとしての知識が必要になる.これによって,以前エンジニアをやっていた営業スタッフを抱えることが必須となる.知的所有権専門の弁護士なども,エンジニアリングの経験が必要な仕事だ.

 そのほかに,広報担当の会社のスタッフや人事派遣・斡旋の会社でも元エンジニアが多い.いずれも顧客がかなり技術的に複雑な製品を扱ったりするからだ.たとえば人事派遣・斡旋会社でも,クライアント企業の技術と業界を熟知している元エンジニアが担当するケースが多い.ベースとなるエンジニアの知識が高いので,クライアント企業もあまり細かいことを言わずに済む場合が多い.これらの元エンジニアが多数であることもシリコンバレー独特なところではないだろうか? 他の場所,アメリカ国内でも少ない傾向だと思う.

日本のエンジニアもビジネスセンスを!

 総合して考えると,たしかにエンジニアリングや物作りが三度の飯よりも好きな根っからの技術者も,シリコンバレーにはたくさんいる.そして彼らが考え出すアイデアなどが新しい企業へとつながっている.しかし,エンジニアとしてのスキルとそのプラスアルファ的な要素が,じつはもっとたいせつだと感じる.つまり,エンジニア以外でのスキル,とくにエンジニアリングをビジネスにつなげるという知識レベルが高く,また共通知識として普及していると思う.日本のエンジニアリングのレベルは非常に標準が高いと思うので,このプラスアルファのところを何とかすれば,日本でもシリコンバレーに負けないハイテク企業が育っていくのではないだろうか.


Column シーズからのベンチャー

 日本発では,シーズをベースにしたベンチャーが良いとされるケースが多い.つまり大学で,あるアルゴリズムをベースに製品化をしてビジネス展開をしていこうというアイデアだ.目新しいアルゴリズムだと,たしかに学界での評価は高いかもしれない.しかし,商品化となるとただ作ればよいというものでもないと思う.たとえば,優れたシミュレータのアルゴリズム(エンジン)があったとしても,既存のデータを取り込む部分の作り込みが必要となる.また,アルゴリズムを実験するプロトタイプができたとしても,実際の顧客のデータを使った設計フローで実証されなければ使い物にならない.意外と外部からデータを取り込むインターフェースやデータベースの作り込みの部分で時間と労力を使うケースが多い.

 また,最終製品を取り巻く市場状況も成功を左右させる.たとえば,どんなに優れた新しいプロセッサを開発したとしても,それだけでなくファームやソフトを開発する環境を用意したりするのは当たり前だし,どの市場にまず売り込むかによっても大きく戦略は変わる.これからプロセッサを売り込むといっても,ウィンテル系が市場を制圧しているPC向けに売り込んでいくのは非常に難しい.エンジニアとしてシーズでビジネスを展開していきたい気持ちは大きいと思うが,肝心なのは,そのシーズを取り巻く環境をどうおさえていくかであろう.




トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 


copyright 1997-2003 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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