第28回

〜外国人エンジニアの問題〜


核兵器スパイ疑惑


 日本でどの程度の報道がなされているのかわからないが,1999年の5月頃に,米下院特別委員会のコックス委員長(カルフォルニア,共和党)が,弾道ミサイルに搭載している核弾頭の設計や中性子爆弾,その他の先端軍事技術を中国が盗み出したというレポートを発表した.

 発表された内容によると,中国はすでにアメリカと同等な機能の兵器をもつことが可能だという.その後,核兵器開発を担当しているエネルギー省が一斉に調査に乗り出した.とくに,国立研究所であるロスアラモス(ニューメキシコ州),ローレンスリバモア(カルフォルニア州)の研究所注1について,保安・機密管理体制の見直しが集中的に行われた.

 同じくは1999年3月に,ロスアラモス研究所に勤めているWen Ho Lee氏がクビになった.今年58歳で,2人の子供がいる4人家族だそうだ.Lee氏は台湾生まれのエンジニアで,若い頃Texas A&Mという工学では著名な大学に留学した.修士/博士号を取得後アメリカに帰化し,アメリカ国民になっている.研究所では核開発のシミュレーションモデルの担当だったそうだ.クビになったはっきりとした理由はいまだに不明で,調査中というのがオフィシャルなスタンスである.

 コックス委員長のレポートによると,中国はLee氏のような中国系アメリカ人を巧みに使って1970年代から徹底的な情報収集(スパイ活動)を行っていたという.CIAやFBI,中国軍事力専門の学者達は,“政治色の強い注2レポートであり実際の証拠や根拠に欠ける,仮にデータや機材に中国がアクセスできても,それを開発にすぐつなげられるとは考えられない”といった論調で非難している.

*        *

 ちょっと前置きが長くなったが,本題に移ろう.これらのニュースが報道されると,多くのアジア系エンジニアは背筋が寒くなったという.まず,Lee氏が適切な調査を受けておらず,白か黒かもはっきりしていないまま解雇となったこと.また,大半のアメリカ人には,中国人,韓国人,日本人などの区別が付かない.われわれ東洋系の人種はまとめてAsian--アジア人として扱われること・・・.

 80年代の貿易摩擦の最中のアメリカで,職を失った自動車工場の社員達数名が,酒の勢いで路上で関係のないアジア人を見つけてリンチを行った事件が数件あった.日本に対するフラストレーションをぶつけたのだ.また,ルイジアナ州でホームステイ中の日本人高校生が射殺された事件もあった.アメリカという国は人種のるつぼでありながら多くの差別問題を抱えており,エンジニアの活動にも多くの影響がある.だから,日本人エンジニアもLee氏の事件について関心をもつ必要があると思う.


注1:ローレンスリバモア国立研究所はシリコンバレーからも近く,ここに出入りしているシリコンバレーの企業も多い.
注2:共和党が民主党を責める題材?

WASPとは?


 アメリカ人というと,おそらく金髪で青い目をしている人を読者は,想像するのではないだろうか.一般に,アメリカ建国の父がWASP注3(ワスプと発音する)だという.White Anglo-Saxon Protestantの略だ.白人,アングロサクソン系,プロテスタント派キリスト教というわけだ.これが典型的アメリカ人,いわゆる白人になる.クリントン大統領やブッシュ元大統領を想像してもらえばよいと思う.

 シリコンバレーは,人口統計から見るとメキシコ系や南米系の血を引く人達が多数派だ.彼らはもちろんWASPではない.また,ケネディの一族は白人だが,アイルランド系カトリック教徒なので,厳密にはWASPではない.

 日系人,中国人注4,韓国人,その他を含むアジア系アメリカ人は,アメリカで経済的に多くの貢献をしている.しかし,アメリカの一部の顔としてはまだステータスがないというか存在感が薄い注5.政治の世界でも,入閣しているアジア人はいない.エンターテイメントの世界でも有名なアジア系俳優注6はあまりいない.アメリカの大企業でメジャーな役員ポストを勤めているアジア人も一握りである.シリコンバレーでも主要なベンチャーキャピタルはWASPが多いし,役員やマネージメントクラスは圧倒的にWASP中心の男性社会になる.


注3:あまり上品な表現でなく,見下した感じなので,日常では使わない.
注4:一般に中国人といっても台湾系,香港系(英国市民?),カナダ系,シンガポール系などさまざまである.もちろん,一般アメリカ人には,区別がつきにくいだろうが….
注5:黒人,南米系アメリカ人,ユダヤ系アメリカ人は,まとまった形で声と顔をもっている.アジア系住民は,人種の定義が広すぎるのかもしれない.
注6:コラムのジョージ・タケイ氏に関するWebサイトを参照のこと.

アジア系住民に対する暗い歴史
── 第二次世界大戦中の日本人強制収容所


 今回のLee氏の問題でアジア系アメリカ人がもっとも心配したのは,アメリカという国が過去にもアジア系住民をターゲットとした政策を数回行っていることだ.真珠湾攻撃の翌日である1941年12月8日,日系人の宗教者,教師といった団体指導者が多く刑務所に連行された.数ヵ月後に大統領命令9066号注7が制定され,西海岸の約12万人におよぶ在米日本人が強制収容所に連行された.多くは日本に帰るつもりのないアメリカ生まれの日系人注8だった.大義名分は,「アメリカ国家を日本人のスパイ行為やサボタージュから守るため…」,実際は複雑な状況が入り交じった,政治色の強い政策注9だった.

 この頃,東海岸に住む日本人はとくに収容されなかったし,ドイツ系,イタリア系住民には何もされなかった.事実として,西海岸に住む日本人だけがターゲットとなった(ここでは詳しく説明しないが,アメリカを理解するうえで興味深い歴史であり,コラムにいくつかのURLをリストアップしておいたので,ぜひ一読してほしい).


注7:コラムで紹介するWebサイトの記事を参照のこと.
注8:アメリカの法律で,国内で生まれた子供は市民権を自動的に得られることになっている.外国人の子供でも,アメリカ国内で生まれれば市民権が与えられる.
注9:一説によると,日本との捕虜交換に使う人質だったという.

外国人エンジニアに対する感情


 Lee氏の問題が本当にスパイ問題であるかどうかよりも,アジア系エンジニアが何らかのターゲットになっている状況について,皆が気にしている.パラノイア(Paranoia)をまた招くのではないかと多くのアジア系エンジニアが心配している.

中国人エンジニア アジア系エンジニア スパイ

といった構図がパラノイアによって煽られるからだ.英国などのNATO諸国も,最近外国人エンジニアに対して警戒しはじめている.

 一般住民で,シリコンバレーにも関係のないアメリカ市民が,技術もわからないし,外国人エンジニアの位置付けを理解できないまま,“アジア系エンジニアはアメリカに入れてはならない”といった極端な運動に走るのではないかと心配する声もある.こういうパラノイアがあると,アメリカ入国に規制が付くとか,プロジェクトの内容を制限されるとか,さまざまな障害を招きかねない.実際,米国議会や英国で,外国人エンジニアの起用は「事実上,技術の輸出」とみなすべきであり,輸出規制の対象とすべきであるといった提案がなされている.

 シリコンバレーは,もともと政治色が薄いか,政治に興味が低い,ビジネスとエンジニア中心の町である.だから,“知識や技能のあるエンジニアなら誰でも歓迎,政治の難しい話で商売と技術の交流の邪魔をしないでくれ! 政治家は引っ込んでろ!” といった風土はたしかにある.

 しかし最近では,中高年のアメリカ人エンジニア達が外国人エンジニアの採用を疑問視する動きがある.本誌1998年9月号,1999年1月号でもとりあげたH1-Bビザ発行の前提に「アメリカ国内で採用が不能な場合,外国人エンジニアを使ってよい」という法律になっているが,中高年アメリカ人エンジニアらは,外国人エンジニアのほうが安く雇えるからだと主張している.この感覚がエスカレートすると,次の構図にもなりかねない.

  外国人エンジニアスパイ,あるいは給料の低下につながる,いい職が取られる国がなんとかしなければならない!

 多くのアジア系住民は,これは前述した日本人強制収容所当時の感覚に似ているのではないかと警戒している.いくらネイティブな英語を話しても外観がアジア系というだけで,やはりまだまだ外国人扱いなのが現状だ.それに,さまざまな経済的な理由やフラストレーションが溜まるとパラノイアにつながる.

 筆者の経験では,シリコンバレーはほかのアメリカの州や土地に比べると開放的で,過ごしやすい場所だ.外国人やWASP以外の人種が生活しやすい土地柄ともいえる.シリコンバレー内では,自由に情報を交換したり,エンジニアの間での健全な競争があって良いと思っている.

 また,海外からのエンジニアや海外の取引先がどれだけ重要か,シリコンバレー内では皆理解しているだろうが,一歩シリコンバレーから出たアメリカでは,そういう理解は少ないように思う.


日本人強制収容所に関するWWW上の資料

◎日系アメリカ人の歴史瞥見
 http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/
534b/534/534history.html

 よくまとめられた記事で,おすすめである.


◎National Japanese American Historical Society
 http://www.nikkeiheritage.org/main.html
 英語のサイトだが,日本人強制収容所の歴史などに関する情報が満載されている.


スタートレックで有名になったジョージ・タケイ氏についてhttp://www.sankei.co.jp/databox/paper/9808/06/
paper/today/year/year.htm

(78Kバイト)







copyright 1997-2000 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
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