第52回

Engineering Life in Silicon Valley

2001年9月11日以後のシリコンバレー


 この記事は10月第2週,ちょうどアフガニスタン空爆が開始され,アメリカが炭疽菌問題で騒ぎになった数日後に書いている.ニューヨーク市内の世界貿易センター(WTC)へのテロ事件から約1か月が経ったが,普通に仕事をしたり通勤していると,とくにシリコンバレーに目に見える変化は感じられない.

 しかし,ニュースでは連日テロ事件の特集があるし,アメリカ政府も「これからはアメリカ市民の生活が変わる」と再三強調している.今回は,見えるところ/見えないところでどのようにシリコンバレーの生活が変わりつつあるかをまとめてみた.

☆ 変わりつつある日々の生活

 前回のコラムでも少し書いたが,もっとも目につく変化は空港や飛行場の警備であろう.荷物検査や身分証明検査が厳しくなり,アメリカ国内線では搭乗するまでに数回チェックがあったりして,乗客が減ったにも関わらず,長い列で待たされるケースが多いとのことだ.最近では警官以外に軍の警備がついたので,自動小銃を持った兵士がいる物々しい雰囲気になっている.

 一方の一般市民だが,CNNや日本のニュースでも報道されているように,アメリカの国旗が至るところに飾られるようになった.以前は祭日に国旗を飾るくらいだったが,今では毎日アメリカ国旗を飾っている家庭が多い.店舗やオフィスでも大型の国旗を飾るところが増えた.ナショナリズムというか,国旗を飾って安心感を得ようとしているように見受けられた.

 例年のこの時期は,カンファレンスや展示会などのピークのシーズンだ.しかし,テロ直後は出張や会合などの凍結や,予定の延期が相次いでいる.また,飛行機に乗ることに対しては大半の人々に抵抗があるようだ.

 そのお陰といっては何だが,テレビ会議システムを導入する会社が急増している.これを出張の代わりに利用しようというわけだ.また,Webを利用したリモートアクセスソフト,ネットミーティング,スクリーンシェアなど,遠距離で情報を共有したり説明する仕組みやサービスソフトが注目を集めている.知り合いの会社でも,今までは顧客先まで出張してソフトの説明やデモを行っていたが,Virtual Network Client(VNC),WebEXやNetMeetingとスピーカフォンで済ませているそうだ.WANやVPN(Virtual Private Network)の使い方しだいでは,かなりのことが遠距離操作でできてしまうのではないだろうか.

 蛇足だが,アメリカのエンジニアとやり取りする機会の多い日本のエンジニアから聞いた話だが,電話で行っていたコードレビューなどの会議を,NetMeetingやチャットソフトなどに切り替えてから,英語の聞き落としなどが減少したそうだ.なんでも,複数のウィンドウを開いてコードについて語りあったり(チャットで筆談)するらしい.会話内容が自動的に残るので非常に重宝されているそうだ.このような使い方や新しい使い方が確立されていくのではないだろうか.

☆ 景気や株への影響

 テロ直後は,もちろん株価の続落が目立った.空爆開始や炭疽菌事件で一進一退の日々が続いている.

 9月11日の前からアメリカ経済は減速していた.もともと調子が悪かった会社も多いので,テロをきっかけにレイオフを実施し,悪い言い方をすれば,テロによる景気低迷を理由・言いわけにレイオフを実施している……という見解も少なくない.とにかく,テロ後に一気にアメリカの航空・旅行産業で失業者が増えたし,シリコンバレーでも元々調子の良くない会社がレイオフ,または倒産している.

 また,一方のスタートアップをサポートする投資家達もたいへんだ.インターネットバブルが弾けてから投資先の整理などが行われていたが,景気が持ち直すのを待って何とかしようというのがとりあえずのシナリオだったようだ.株価が持ち直してから店頭公開可能な会社は公開させて,そうでない会社はなんとか売却……というシナリオを描いていたようだ.

 しかし,テロ後は一気に株式市場に不安が募り,持ち直すのに時間がかかると考えられている.そのため,夏頃から増資を試みていたスタートアップは大変なことになった.テロ前でも難しかった増資状況が,さらに困難になっている.

 こういうことから現在は,大きな会社だけが安定して職をもてるという状況になりつつある.とくに,エンジニアは一度レイオフをしてしまうと再び雇うことが難しいので,このことを理解している大きな企業は,なるべくエンジニアをレイオフしないで頑張ろうとしている.しかし,技術系の仕事でない人や,まだ大学を出たての若手エンジニアは危ない.実際に,シリコンバレーのあるサンタクララ郡の失業率は,全米の平均を追い抜いているそうだ.インターネットバブルの影響も考えても失業率は高いといえる.

☆ これから注目される会社

 しかし,レイオフや倒産ばかりの悪い話だけでもないようだ.テロはシリコンバレーのハイテク企業にさまざまなニーズやビジネスチャンスを呼び込んでいる.たとえば,前述のテレビ会議システムやリモートアクセス系のソフトなどがあげられる.

 また,荷物検査システムなど,警備系のニーズも多くなると予想されている.医療機器の応用で,CTスキャンを荷物検査に使うシステムを作っている会社などがある.また,テロの犯人達が偽名で飛行機に搭乗していたことから,国民IDカードの構想が持ち上がった.何らかのバイオメトリック(指紋,眼中網膜,手のひらなど)を併用した,偽造が困難なスマートカードと照合システムを無料で開発すると,アメリカ連邦政府に対してオラクルCEO/会長のLarry Ellison氏がテレビインタビューで提案していたぐらいだ.実際は,人権の観点や政治的なこともあるのでどうなるかは不透明だが,シリコンバレーの会社に期待がかけられているのはたしかだ.ちょっとまとめてみると以下のようになる.

1) 通信

・テレビ会議システム

・リモートアクセスソフト,クロスプラットホームアクセス

・ワイヤレス通信(テロ事件で携帯電話による通信がニュースでも大きく取り上げられたが,一般市民の携帯電話加入が増えている.また,Globalstarのような衛星電話の加入も増えている)

2) セキュリティ・警備

・ネットワークを守るタイプのソフトやサービス全般(暗号化システム,FireWallなど)

・バイオメトリックセンサおよび認識/照合ソフトなど

・スマートカード

・爆発物,危険物を発見する装置

・細菌兵器テロ対応のセンサ(高速DNAサンプル認識システム)

3) 軍事関係すべて

・諜報関係(監視衛星,暗号解析など)

・兵器

4) その他

・航空機機内(コックピットドアの新素材,機内監視システムなど)

・バイオテック(細菌兵器テロ対応ワクチンの開発など)

 以上で共通するのが,センサ類のハードとソフトを組み合わせたシステムや,何らかのネットワークを介したアプリケーションが多いことだ.また,開発TAT短縮とコストを下げるために既存のコンポーネントやサブシステムを利用する例が増えている.少し昔だと軍事用の製品は専用コンポーネントが当たり前だったが,これも時代の流れで変わりつつあるようだ.

 組み込み設計やセンサ類を使ったディジ-アナ設計,ホストシステム(PC,UNIX類)とのインターフェースに強いエンジニアが求められると考えられる.さらに,これらのシステムをサポートするために,高速なメモリ,CPU,RTOSなどの需要も増えると考えられる.シリコンバレーのエンジニアの需要がこれからも見込めると思う.その他,意外と日本の技術や技術者が知らずにサブシステムの開発に関わっていたということも考えられるだろう.



トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 

Column 軍事や政府関係の仕事に戻るシリコンバレー??

 筆者は,1982年頃から学生アルバイトとしてシリコンバレーで働いていたが,当時はミリタリー/ガバメント系の会社がエンジニアの就職場所としては花形だった.78年の大統領選挙で負けたカーター政権は2桁台の失業率とインフレに苦しんだが,タカ派としても有名なレーガン大統領は,当選以降,古典的なケインズ経済学に基づいた軍事・政府収支を大幅に増やす景気対策や規制緩和などでアメリカの景気を立て直した.

 今回,テロ後の景気政策もレーガン大統領時代と似ているといわれている.軍事・政府収支を大幅に増やすことと税制改正が提案されている.とくに,ハイテク企業に対してさまざまなシステムの開発が見込まれているからだ.冷戦後頻繁に語られているのが,RMA(Revolution in Military Affairs)というコンセプトだ.非常に簡単に要約すると,時代と敵に合った軍備・戦略を考えようということだ.たとえば,湾岸戦争でもすでに披露されたスマート爆弾や,旧来から存在する爆弾・ミサイル類の監視衛星,レーザー誘導など新しい技術を融合させてさらに効率良くするという考え方だ.

 今回のアフガン空爆では,UAVと呼ばれる無人偵察機が利用されていることがニュースなどで明らかになっている.大型のラジコン飛行機のようなものなのだが,40時間飛行可能で,さまざまなセンサやカメラを搭載しており,リアルタイムで敵陣のようすを観察することが可能だという.ボーイング社では,UCAVと呼ばれる無人爆撃機の発表もすでに行っている.危険な任務をUAVやUCAVが行うというのもRMAの一つの例にすぎない.人工衛星の監視を補うために高度飛行が可能なUAVも存在する.さまざまなセンサやネットワークを利用することによって,情報を中心に戦略を展開するというのが今回のRMAの骨子でもあるといえる.

 一方,細菌テロ検出機器の開発では,Cepheidというシリコンバレーの会社によるDNAを検出し光学センサによって判別するシステムが注目されている.

 FBIやCIAなど連邦政府系の仕事も,注目されている.今回のテロ犯人が使ったノートパソコンを解析するために,キーストロークを利用した技術でハッキングを行ったそうだ.また,マネーロンダリングを解析するために金融関係に強い技術者も求められているそうだ.ここでも,エンジニアのスキルが必要とされている.

 兵器開発などは確かに物騒な話ではある.しかし,GPSや携帯電話の基礎技術がアメリカ軍事産業に関係していることを考えると,こういう新しい技術もいずれ民間への応用が可能になり,さらなる技術躍進を遂げることになるのだろうが,景気回復,雇用安定,新技術の開発など,さまざまな面でインパクトがあるのは確かなようだ.


copyright 1997-2001 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
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第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
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第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
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第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


Copyright 1997-2005 CQ Publishing Co.,Ltd.


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