第55回

Engineering Life in Silicon Valley

2002年のトレンド


 アメリカ人は「トップなんとかランキング」といった類のTV番組が好きだ.Comdexなどで行われる基調講演でも,ジョークとして使われることが多い.新しい年になると,新聞や雑誌でトレンドの予想を10個取り上げることが多い.筆者はそこまで大げさなことは到底できないが,自分なりに今年シリコンバレーで気になるトレンドをいくつか取り上げてみた.

Column ICパッケージ

 知り合いに組み込み系のエンジニアがいるが,実装したボードのデバッグでたいへん困っているという話を聞いた.最近のICパッケージでは,ボードレベルで小細工をしてのデバッグができないとのことだ.BGAになったときにすでにピンの数とピッチの狭さには驚いていたが,最近のフリップチップ型の超多ピンデバイスはもうどうしようもないと嘆いていた.専用ソケットは多ピンの接触やあつかいに逆に気を使うので,使う気になれないという.デバッグでも今までならちょっとしたジャンパなどは,はんだごてでなんとかしたものだが,現在ではワイヤラップはもう無理なので,ボード屋さんに出して作る.とにかく専門機器があればなんとかなるのだろうが,そこまで買う気になれない……とぼやいていた.3次元のスタックドチップスケールパッケージも登場しているので,システムを無理に一つのICに収めるよりも(SoC),パッケージレベルでのシステム実装が進んでいることをあらためて認識した.


保守的になるエンジニア達

 インターネットバブルがはじけたすぐ後に追い討ちをかけるように9月11日のテロ事件があったため,個人的にも打撃を受けたシリコンバレーのエンジニアが多い.急に職を失ったり,勤めていた会社が倒産するなどの「事件」が相次いだ.

 筆者のまわりのエンジニア達に今後の仕事などについて聞いてみたが,そのほとんどは一攫千金をめざすより,仕事や職場の安定を望む方向に向かっていることがわかった.自分自身がレイオフされたり身近にレイオフがあると,みな今後の仕事については慎重になるようだった.「仕事や職場に振り回されるのはこりごりだ……給料はほどほどでも良いから,安心して仕事が続けられる会社や職場が欲しい」「未公開株をもらったりするのがスリリングだったが,ちゃんと上場して,そこそこ安定して売り上げのある会社が魅力的に見えてきた」という答が多かった.

 唯一の例外は,インターネットバブルのときに稼いだ(荒稼ぎ?)人達や貯えが十分にある人達で,「これから何があるかわからないがゆっくり考えたい」と答えていた.投資家も,最近のエンジニアは慎重になっているとコメントしていた.「あるベンチャーで景気が悪くなって若いスタッフをレイオフをするかと思っていたが,設立者のエンジニア自らも減給することによって,この時期を乗り切ることにした……これは今までではちょっと考えられないことで,大いに評価すべきだ」と語り,エンジニア達が職を守りつつ開発をこつこつと続けたいという姿勢を見せていた.悪いことではないようだ.

バイオテックと医療関係

 シリコンバレーはエレクトロニクスやソフトウェア以外に

バイオテック関係の会社が多い場所でもある.これは,近くにスタンフォード大学(医学部あり)や医学研究で有名なUC San Franciscoや生物学や化学で強いUC BerkeleyやUC Davisがあるからだろう.

 また,シリコンバレーのエレクトロニクス関係のサポートを行うベンチャーキャピタルの多くもバイオテックの部門をもっている.

 一口にバイオテックといっても,製薬会社やヒトゲノム研究の会社,Agilent(旧HP)の医療機器グループなどのように幅広い分野がある.エレクトロニクス関係のベンチャーとの違いは,会社のサイクルが長いことだろうか.基礎研究から臨床試験,そして実際の製品生産まで10年以上かかることが多い.’90年代初期にスタートした会社がそろそろ結果を出す時期に来ており,かなりの数の新薬が発表されるそうだ.また,ヒトゲノムやDNA研究関係ではアルツハイマーなど,難病解決の研究が盛んである.もちろん,コンピュータ技術やエレクトロニクスとの融合も大いに盛んだ.

インターネット……もう一度

 インターネットバブル期の反省として,当時はサイトを中心に物事が進みすぎたという意見がある.とりあえずサイトを立ち上げれば良いという感じで次々とサーバが設置されていった.実際,Webホスティングサービスやアプリケーションサーバなど,さまざまな試みがあったが,ルータやデータストレージのサイズがまちまちであるなど,インフラ面での問題を大きく抱えていた.

 当時……といっても数年前のことだが,その頃の技術ではまだまだ現在のトラフィックを見据えたハードウェアがなかったのが大きな原因だったといえる.また,今後パソコン以外の端末……たとえば携帯電話やモバイル機器が増え始めると確実にサーバ側でデータを抱えなければならない.よって,今後はデータの安全性やインフラの安定性を重視したインフラ整備が活発になるといわれている.最終的には,中央オフィス型の電話(交換機やボイスメール機器がすべて電話会社側にあるオフィスフォン)のように,必要なコンピューティングパワーやストレージを柔軟に増設できるサービスになることが予想されている.

 そういう意味でも,インフラやそれらのアプリケーションを供給している会社にとっては忙しい年になると予想されている.この恩恵を受けて,システムLSIやサブシステムを供給する会社,またツールベンダも忙しくなるだろう.

やっぱり手堅く経済効果が大きい軍事

 テロ後の臨時追加予算などで,合計約800億ドルの予算がアメリカ国防総省(ペンタゴン)につけられた.具体的な使い道は徐々に明るみに出てくるが,1月号のこのコラムでも紹介したように,空港警備関係の機器以外も,一気に議会を通過してしまいそうな勢いだ.

 テロ関係でもっとも目立つのが,空港安全対策への使い道だろうか? 警備の人員増強のほか,機器の購入も多い.たとえば,InVisionというシリコンバレーの会社は,CTスキャンの技術を応用した荷物検査装置を供給している.テロ前はおもにイスラエルやヨーロッパ諸国がおもな顧客だったそうだ.現在では製造が受注に追いつかないという話だが,シリコンバレーのことなので,別のアプローチで荷物検査装置の開発を行っている会社もあるのだろう.また,人の表情や顔の特徴を認識するソフトの試験も行われている.

 空港安全対策と同じ規模の投資が諜報関係だ.とくにテロを未然に防げなかったことで,アメリカ国内の情報収集能力や解析能力が大きく問われている.日本でも話題になったエシュロンは,さまざまな通信を盗聴して自動的に複雑な解析を行う大掛かりなシステムだ.このような大規模な盗聴システムがあるにもかかわらず,連邦政府レベルで収集された情報と地元警察で収集されたデータがうまく連携できなかったことが問題視されている.

 データベースのOracleやネットワーク機器メーカーのCiscoの大型顧客にアメリカ連邦政府のCIAなどがある.今後もアップグレードや新規購入,新しいシステムの開発などが見込まれている.実際にエシュロンを管理・運営している連邦政府のNSAは,アメリカ国内でもっとも大きいスパコンの顧客だといわれている.音声認識や複雑なパターン認識で集めたデータをスパコンで解析するのだという.

 その他の分野では,ペンタゴンが4年に一度議会に提出するQuadrennial Defense Review Reportと呼ばれる白書がなかなか興味深い.いくつかのテクノロジ分野の重要性を指摘している.1)ナノテクノロジなどによる超ミニモバイルセンサ,2)並列・量子コンピュータによる暗号解読など,3)バイオメトリックス,4)画像処理技術.いずれもシリコンバレーに関係の深い分野だ.

 軍事装備の購入過程にも変化が見られる.従来の軍事装備は特注品が多く,国産品であることが必須だったが,最近は購入してから実際に使用するまでのスピードを重視して,特注・国産にこだわらなくなったそうだ.また,逆に軍部で開発されたものを早期に民間企業に製品化させることも多くなった.これにより開発コストを分散させて早期に回収すること,さまざまな政府機関で使う仕様を統一することがねらいだそうだ.

 ほかの例では,軍備の配給を効率良く行う物流システムを宅配便などをあつかう会社と共同開発している.AIのエージェント技術を使い,もっとも効率の良いルートや運送方法を見つけ出す.これは実際に旅行プランを立てるソフトに応用されており,商品化が進んでいる.

つながるガジェットが欲しい!

 エンジニア個人の生活はどうだろう? シリコンバレーのエンジニア達もガジェット(gadget)が大好きだ.しかし,日本に比べるとシリコンバレーで購入可能なガジェットの種類はそれほど多くない.この分野ではまだまだ日本のメーカーが独占しているし,消費者の環境も日本のほうがはるかに良い.

 最近では,PDAそしてDVDやMP3などのAV関係のガジェットが良く売れている.カーナビも最近やっと注目されるようになってきた.日本円にして5万円以下のガジェットならエンジニア達も躊躇せずに買うようだ.また,それらをつないだり併用する使い方に関しては皆敏感なので,潜在的な需要はかなりあると思う.

 しかし安定かつ普及しているブロードバンドがないのがアメリカの現状だ.たしかにADSLやCATVなどがあるが,キャリア側が安定していないので怖くて使えないと考える人が多いし,値段も高いと感じているようだ.まだまだ一般の電話が安いからだろうか? 実際,56Kモデムの普及率がまだまだ高い.

 もっとも問題視されているのはワイヤレスデータ通信ではないだろうか? 日本の携帯電話やPHSを利用したモバイルデータ網を羨ましがるシリコンバレーのエンジニア達は多い.アナログ方式のみの地域がまだあるし,ディジタル方式も3種類(TDMA,IS95-CDMA,GSM)あるアメリカではキャリア側が音声サービスをするので精一杯のようで,データサービスが本格的に始まるまで,まだまだ時間がかかりそうだ.独自のパケットデータサービスの会社もあったが,昨年数社が倒産した.

 現状のアメリカでは,消費者の手に入るワイヤレスデータサービスは皆無に近い.携帯電話の端末も少なく,機能的にも未熟だ.PDAなどの情報機器を皆もっているのだが,ワイヤレスで通信できないのが本当に残念だ.インフラの整備と端末メーカーなどの連携がなかなかうまくいかないのが大きな原因のようだ.ガジェットの分野では,やはり日本の家電メーカーが企画,開発そしてお洒落に買わせるテクニックがまだまだ高いといつも感じる.


 年明けて2002年1月,シリコンバレーを中心とするサンフランシスコ・ベイエリアは,全米で最悪の失業率になった.インターネットバブルの崩壊とテロが重なったからだろう.全米では今年の後半には景気回復が予測されているが,シリコンバレー全体としては,2003年までかかるといわれている.


トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 

copyright 1997-2002 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
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第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
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第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
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第10回 続・C99規格についての説明と検証
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第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
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第65回 雑誌いろいろ
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