第56回

Engineering Life in Silicon Valley

エンジニアと税金


 アメリカでは「死と税金は避けられない」といわれるほど税金に対する関心が高い.毎年2〜3月頃になると税金申告の締め切りが近づくので,どこもその話題でにぎやかになる.シリコンバレーのエンジニア達も仕事の忙しい中,申告の準備を始める.

Column ストックオプションの落とし穴

 昔は,アメリカもストックオプションが一般社員に適用されず,役員や会社上層部だけの特権的な存在だった.このため,裕福層の資産隠しに使われることを恐れたアメリカ議会がAMT(Alternative Minimum Tax)と呼ばれる税制を1970年代に確立させた.

 シリコンバレーのストックオプションは現金での賃金を抑えるかわりに会社の成功と個人の成功を一致させた報酬体系だが,このAMTのお陰で新しい落とし穴ができた.オプションにはある価格(たいていの場合,低価格)と数量の自社株を購入できる権利を社員に与えることになる.この権利を行使できるタイミングにも規定がある.また,会社が上場しないと現金化できない.

 問題は,行使した際に授与時からの価値増加分がAMT課税されることだ.これは,オプションのペーパーゲインに対する税金と考えてよい.売却時にはまた権利行使時からの増加分に対してキャピタルゲイン課税を払う.AMTの税率が高いことと,その後に株価が減ってもまったく考慮されないし,その年の税金負担,収入の有無にかかわりなくAMTは効く.だからオプションをもらって行使した日から株価が暴落してもAMTに変わりはない.そのため,インターネットバブルが弾けて株価が暴落し,失業した人にはとうてい払えない額のAMTが課税される.ENRONのケースでも多くの中流層の人達が高額なAMTを支払えない問題が続いている.とにかくストックオプションの行使はかなり計画的に行わないと後が怖い.


基本的概念とおさらい

 アメリカの税法と歴史は切っても切れない親密な関係にある.もともとイギリスの植民地としてスタートしたアメリカ植民地住民は,イギリス本国から印紙条例や茶条例などによる重税を課せられていた.しかし,本国の議会に代表権のないまま,一方的に押し付けられる課税に反発した植民地住民が立ち上がったことにより,独立戦争につながりアメリカ建国にいたった.ようするに,アメリカ建国の父達は税制に対して不満をもっていたイギリス市民達だったのだ.

 そういうわけで,アメリカは先進国でも納税意識の強い国だとされている.政治家やお役人達もスピーチに必ずといってよいほど「親愛なるアメリカの納税者の皆さん注1……」というフレーズで民衆に対してアピールを行う.橋や道路工事がスタートすると看板が立ち「Your tax dollar at work……」(あなたの納めた税は次のプロジェクトで有効利用されています……)の走りで「この建設プロジェクトはXX年XX月に納税者の皆さまによって可決されたXX条例によってスタートされました」と明記されていることが多い.とにかく,税と政治が直結しているところが非常にわかりやすい.

 さて,実際の納税のプロセスについて,このコラムを以前担当されていた八木広満氏が1996年6月号で少し書いていたが,今回は筆者なりに再度まとめてみよう.

 普通に企業で働くエンジニア達だと,日本のエンジニアのように毎月の給料から天引きされていく.大まかな数字だが,連邦税(Federal Income Tax)が20%,カルフォルニア州税(State Income Tax)が6%,社会保障税(Social Security Tax)が6.2%,国民医療保障税(Medicare Tax)1.5%,カルフォルニア州失業・労災保障税(State DI)0.5%となる.おおよそ合計で給料の3分の1 注2 を税金として会社側が天引きして納める.これらは,給与明細にちゃんと書いてある.一見,源泉徴収のようだが,4月15日に締め切りのTax Returnによって年末調整に似たことを行う点が違う.天引きで払いすぎた人は税金が戻ってくるし,天引き額が少ない人は差額を支払う.この調整が日本でいう確定申告に近い書式だ.日本で普通にサラリーマンをやっていると確定申告をする機会はほとんどないかもしれないが,アメリカでは納めた税金がちょうど合っていても申告が義務付けられている.何かしらの収入がある人は,この書式を提出しなければならない.

ユーザーフレンドリーなIRS?

 アメリカの税務局にあたる内国歳入庁(IRS)は,何度かの改革でかなりユーザーフレンドリーなお役所になっている.たとえば書類.英語でぎっしり書かれているのでややうんざりするものの,それ以外の点ではじつによく考えられている.一般書式は,アメリカで高校を卒業した人なら問題なく仕上げられるようなレベルで書かれている.準備するものや,書式記入完成に必要な時間の見積もりまでも書いてあるところが面白い.

 また,Webサイト注3も良くできており,すべての書類をPDFでダウンロードでき,Q&Aも対話形式で,大手パソコンメーカーなみのサポート体制だ.見た目もお役所のサイトとは思えないほどだ.

選択肢の多いことはいいことだ!

 さて,税金計算の内容だが,ここから日米の大きな違いがある.アメリカではシナリオが何通りも用意されており,自分にもっとも合った形で計算をすることになる.ようするに選択肢が多いわけだ.たとえば,夫婦でも合算申告か個別申告か選べるし,控除項目も標準控除と項目別控除が選べる.多くの場合,項目別控除を選ぶことによって細かく控除額を調整できるので節税が可能である.また,シリコンバレーだとストックオプションを通じて自社株をもっていたりするので,それの申告のために必ず項目別控除をしなければならない場合がほとんどだ.

 実際の項目だが,おもなものは以下のとおりである.

・医療費:調整後所得の7.5%を超える部分が控除可能.健康保険でカバーされない通院の交通費,コンタクトレンズ,眼鏡,精神科のセラピスト注4などもカバーされる

・州・市税:連邦税を計算するときに控除する

・不動産税:固定資産税になり,シリコンバレーの住宅市場からするとかなり大きい

・自動車税:自動車などの動産の価値に対して課税される

・その他の税:外国で払った所得税など.日本からの赴任だと住民税などが使える

・住宅ローン金利:ローンの金利部分,その年に払った分が100%控除される.これも大きい

・寄付金:公認団体への寄付.物品と現金の2種類がある

・損害:災害・東南の被害の合計が,調整後所得の10%以上になるとき

 このほかにも引越し費用,失業中の求職に使った費用,会社から清算されなかったものの仕事に必要な費用,たとえばエンジニアだとIEEEなどの学会の会費,業界紙の購読料などの控除項目が設けられている.範囲が広くて目が回りそうだが,これらを理解すればするほど,どこでどれだけ節税できるのかが明確になる.

節税対策が地価高騰に関係?

 シリコンバレーのエンジニア達も節税にはとても熱心だ.たとえば若いエンジニアだと,ある程度頭金さえ出せるようになれば住宅を購入することが多い.30年ローンが一般的だが,その年に払った金利と固定資産税すべてが控除額になるので節税にもっとも効果的なのだ.たとえば,シリコンバレーの中心部,サニーベール市のごく一般的な一戸建てを購入し,50万ドルの家で30万ドルのローンを組んだ場合,金利が2万ドル程度と固定資産税が6千ドル程度になる.

 また,アメリカでは住居を買い換えることが頻繁に起こる注5ので,買い替えのキャピタルゲインも見込める.多くの場合,頭金は勤務先のストックオプションからのゲインで捻出したり,親族から借り,購入費の残りは自分の給料範囲で目一杯ローンを組む.また,収入が増えるたびに引っ越すエンジニアもいる……これも税金対策なのだそうだ.エンジニアなどの比較的収入が多い人はなんとか家を買えるが,エンジニアやハイテクに関係のない一般住民にとってはシリコンバレーはとても高額な住宅地である注6

エンジニア達の税法ぎりぎりの節税対策

 自宅を購入してもなお節税したい人は,セカンドハウスや違う不動産投資を行う場合が多い.二つ目の不動産ローンも控除額に入れられるからだ.また,企業に勤めながらサイドビジネスをやることによって,個人事業主の控除項目を使って節税することが可能だ.大きい企業では社則でサイドビジネスのルールがあるので,配偶者をメインでやらせたり,本業のエンジニアリングとまったく関係のないサイドビジネスをする人も多い.

 以前の職場に中年のインド人エンジニアがいた.この人は変わっていて,いつまでたっても出世をしたがらず,スタッフをもたないシニアエンジニアとして仕事をしていた.理由を聞くと,昔エンジニアとしてストックオプションでかなり儲けたので,これ以上儲かると税金でもっていかれるのが嫌なのと,管理とかややこしいことが嫌いだからだと言っていた.たしかにインテルの初期の頃から仕事をしており,まだインテルの株をかなりもっているそうだが,身なりは普通だし,かなり古い車を運転していて,かなり裕福なことが外見からではまったくわからない.エンジニアリングの知識もすごかったが,税金の知識も税理士以上にあったのではないだろうか? このエンジニアの週末の日課はシリコンバレー内にもっているモーテル数軒とアパート数軒を回って修理などをすることだった.この人の場合,不動産投資と不動産管理を一人でやっていたわけだ.

 もっとアグレッシブなエンジニア達は,税法ぎりぎりのことをする.知り合いのエンジニアで,奥さんがインテリアコーディネーターと造園のビジネスを行っている.奥さんの車は社用車でマグネットで取り付けられる看板注7を貼って町を走る.こうすれば,ちょっと郊外へ子供の遠足のお供をするだけで造園ビジネスのためにリサーチに行ったことにできるらしいのだ.

 一般エンジニアよりもっと余裕のある人は,ベンチャー投資に手を出す場合もある.節税は,キャピタルロスが出た場合,控除する額や年度を柔軟に調整できるので,本業でもうかった年に,2年前に出たキャピタルロスを使って課税対象をおさえるといった目的に使える.

 変わったケースでは,農園兼羊牧場に住んでいるエンジニアがいた.アメリカにも農業を守る政策が多くあるので,農業を営んでいるといろいろと一般の人が知らないような税制優遇があるらしい.彼は,いつも「田舎は空気がいいし,羊もかわいいし,税金もほとんど払ってないからいいよ!」と笑顔で言っていた.


注1:原文だとDear American tax payers...になる.
注2:簡単な計算でいくとアメリカの手取りは年俸の2/3になる.
注3:http://www.irs.gov/
注4:アメリカでは精神科にかかることがタブーではないし,ストレスの多いシリコンバレーでは,セラピストに行くエンジニアやその家族が多い.
注5:家族が増えたりすることによって広い家に移るなど.
注6:シリコンバレー・サンフランシスコの住宅は高いことで必ず全米のトップ5位に入る.
注7:お洒落なところに行くときには取り外せるからだそうだ..


トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 

copyright 1997-2002 H. Tony Chin

連載コラムの目次に戻る

Interfaceトップページに戻る

コラム目次
New

移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

Back Number

移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


Copyright 1997-2005 CQ Publishing Co.,Ltd.


Copyright 1997-2002 CQ Publishing Co.,Ltd.