第78回

Engineering Life in Silicon Valley

インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事


 ITバブルが弾けて早くも4年が経過したが,アメリカ全体の失業率は依然として高い.とくにシリコンバレーや北カリフォルニアでの失業率は8%に近く,全米でもっとも高い数字となっている.2003年11月にアーノルド・シュワルツネッガー氏が知事更迭選挙で勝ったのも,カリフォルニア州の財政赤字が原因とされている.ストックオプションをもらうエンジニア達は高額納税者だし,カリフォルニア州の財政のほとんどは州の所得税で賄われてきたが,ITバブル崩壊と共に多くのエンジニア達は失業者となっていった.

 最近では,やっとアメリカ全体の景気が上向きはじめているが,Job loss Recovery――つまり雇用が増えるどころか,減る景気回復と呼ばれている.これは,企業の業績が上向きはじめているものの,レイオフされた人員を補填するための雇用を行わず,人数の少ないまま仕事を続けているということだ.

 シリコンバレー企業の多くは,収益を確保するためにコスト削減を行っているが,もっとも効果的なのがレイオフだ.小出しにレイオフすることによってメディアの目を避けているものの,エンジニアの雇用を減らしていることは確かだ.

 そして,一般エンジニアの間ではこれによって海外に仕事が流れ出ることが懸念されている.インドや中国をはじめとして,一部は東欧,旧ソビエトなどに流れ出ているといわれている.とくに,もっともホットな場所はインドである.


インドのメリット・デメリット


 インドに仕事の一部を流すのは新しい試みではなく,シリコンバレーでは以前からもあった.シリコンバレーにはインド出身のエンジニアや経営者,そして投資家も多いことから,すでにコネクションはあった.それをうまく利用しようということだ.インドには優秀な技術者が多く,Indian Institute of Technology (IIT)といった世界的に有名な工学専門の大学もある.またインドにはプライベートなお金が集まりやすく,ベンチャーキャピタル的な投資も行いやすい環境がある.その一方で中国は比較的に投資が難しいとされている.

 そしてインドは知的所有権を尊重する傾向が強いので,中国のように法的な心配が少ないという点がメリットとされている.ただ,高速道路などの交通面や,ビルなどのインフラ面では中国が整っていて,インドは遅れているとされる.

 シリコンバレー企業がインドの技術力を活用するケースにはいくつかのパターンがある.まずは,インドに拠点や支社を設けて共同で仕事を進めるケース.他のケースでは,インドのアウトソース専門の会社に発注するというパターンだ.いずれも優秀な技術者がシリコンバレーの10分の1近くのコストで雇えるうえに,英語が通じるという点で大いに魅力があるようだ.

 また,時差のつごうでアメリカが夜のときインドは昼なので,アメリカのエンジニア達が寝ている間にインドのエンジニア達が仕事が進め,翌日にバトンタッチできるという,“follow the sun”――「太陽を追う」開発スタイルが一時期流行りとなった.実際のところ,うまくコミュニケーションを取ったり,役割分担を決めたりしなければうまくいかないため,仕事管理のオーバヘッドが大きくなるのが現状だ.しかし,うまく回り始めるとそれなりの成果が出るのは確かなようだ.筆者の知っている会社では,回路設計をアメリカで行い,検証やレグレッションをインドで担当している.検証用のシミュレーションスイートやレグレッションのファイルを用意するのは人海戦術的で人手がかかるので,インドで行っているそうだ.また,実際の企画とスペックだけシリコンバレーで行い,実際のコーディング関係はすべてインドというスタイルもある.いずれのケースも仕様書をしっかり書いてプロジェクト管理をしっかり行っているのでうまくいっているようだ.

 インドに支社や自分たちの拠点を設けていない場合は,アウトソースを利用する.このようなところは会社化されているところもあれば個人のようなところもある.いずれもシリコンバレーで仕事をしていたエンジニア達が間に入ってプロジェクト管理や仲介の作業を行うそうだ.最近のところでは,新しいベンチャーでもインドに対する考えを明確にビジネスプランで示さなければならないそうだ.インドや中国に安価なエンジニアリング資源があるわけだから,それをどれだけ新しいベンチャーが活用しているか,投資家達も知りたいわけだ.


他のホワイトカラーの仕事も輸出される


 エンジニアリング以外の仕事もインドにシフトしている.カスタマサービスとかマニュアル類を書くテクニカルライターの仕事などが典型的なパターンだ.オンラインショップのみのDellのカスタマサービスは,アメリカのフリーダイヤルにかけてもインドの拠点に通じるという.実際,筆者もDellのパソコンを使っていて,一度お世話になったことがある.電話をすると,微妙にインドなまりが多少聞こえたが,「ジョン」と名乗るサービスオペレータが対応してくれた.なかなかていねいで文句のないサービスだった.

 この経験の前後にこちらのテレビのドキュメンタリーで見たのだが,このようなアメリカ企業のカスタマサポートをインドに輸出している話だった.アメリカの顧客からサポートがインドで行われているということをわからないようにするために数々の努力やくふうを凝らしている.とくにトレーニングなどには力が入っているようだ.インドなまりを直して,アメリカ英語に教育する専門家がアメリカから派遣されるという話だ.また,逆にアメリカの地域別のなまり,俗語や言い回しを聞き取れるようにするトレーニングもあるようだ.さらにアメリカから持ち込んだテレビ録画のトレンディードラマやスポーツ中継,そしてニュースなどを見て,最近の一般情報,娯楽情報までをも教え込んでアメリカの客に違和感のないようにする努力をしている.テレフォンサービスを行うインド人の若者も,じつはIITの工学部卒業生だったりして,かなり高学歴なケースが多い.

 インドはエンジニアの人口が多いのでトップ1%ぐらいでないと外資系のエンジニアリングの仕事についたり,海外での仕事ができないそうであるが,テレフォンサポートにしておくには少しもったいない人材が多い.その一方で,テクニカルライターだとなまりなどの心配はない.ただエンジニアから得た情報からマニュアル類を書いていくだけだ.いずれも人手がかかったり,工数が必要な作業がインドにアウトソースされるようだ.


エンジニアリング以外の仕事もインドへ


 海外に輸出される仕事はエンジニアやエンジニア関連の仕事だけではない.たとえば,バイオテックなどの基礎研究の一部をインドに持っていくケースがある.シリコンバレー近辺では電子機器やソフトウェア以外に,多少のバイオテックの企業が存在する.あまり詳しいことはわからないが,基礎研究の分野でデータ収集のために実験や分析を進めるものがあり,人手がかかるので,やはり海外の技師を使うケースが多い.

 このようなケースには,前述のインド以外に台湾がある.台湾では,電子機器の製造業が中国大陸にシフトしていき,その代わりになる事業としてバイオテックに取り組んでいる.いずれも人手がかかり,アメリカでは高くつくのでまとまった人材が集中しているインドや台湾に仕事が流れる.台湾では,化学や生物学の博士号を取得した技師がアメリカの3分の1程度のコストで雇えるし,バイオテックに対する投資も盛んなので新しいベンチャー企業が立ち上がっている.アメリカのバイオテックの企業と共同開発または委託研究を進めているケースも多い.

 また,新素材などの基礎研究をインドの企業に委託することがある.ソフトウェアの場合と同じで,レベルの高い技術者を安く雇えることに非常に大きな期待がかけられている.

 技術職以外では,金融界のリサーチなど,バックオフィスと呼ばれている後処理的な業務がドンドン海外で行われており,インドにいくケースがもっとも多い.たとえば銀行のローン申請での書類チェックや審査などをインドの会社に委託したり,証券会社の顧客に提出するリサーチデータ類もインドの会社に委託するケースが増えている.エンジニアリングの仕事と同じように人手が必要で自動化できない仕事や工数が多い仕事に集中していることが特徴である.


今後のシリコンバレーはどうなる?


 実際のところ,仕事がインドに移行したため,職を失ったりポジションがなくなったといった詳しい統計は,今のところデータが揃っていないらしい.データを取るのが難しいというのがその理由のようだ.会社側としてはっきり言えない立場もあるそうだ.

 海外に輸出されていく職業をどう捉えるか? これはシリコンバレーで仕事をする人々の立場によって異なる.仕事を失ったり,年齢が高かったりするエンジニア達は今後の不安を隠せず,アメリカ政府に何か政策を打ち出すように主張する人も多い.その一方でさまざまな仕事がグローバル化によって輸出されていくことを止む終えないことだと捉える人も多い.またインド系や中国系のエンジニア達は自国に仕事が流れていることを複雑な気持ちで見ているようだ.インド系のエンジニア達は,これまでインドが貧しい国であったのと経済鎖国に近いことをしてきたので,世界的に重宝される人材は国にとって良いし,今後インドの発展につながるのではないか,と見るらしい.しかし,これは最終的に地元経済が潤わなければ意味がないし,コスト的なことも単なる一時的なものであるともいえる.

 またシリコンバレー全体で今後何をしていくのか?という議論も出ている.つまり,ほとんどのエンジニアリングや基礎技術の研究が国外に流れれば,何がシリコンバレーに残るのか?ということだ.今後はシリコンバレーがそれほど技術をリードしないのでは?といった悲観する意見もあれば,楽観視する意見もある.楽観している意見では,人手がかかる作業を安い場所でやれば,それだけシリコンバレーのエンジニア達が他の仕事に手が回り,他の製品開発や研究に着手できるから良いのだ…と説明する.

 いろいろと賛否両論はあるし,まだまだ結果や影響が目に見えないように感じるのであるが,現在だと不況の影響もあり,少し悲壮感があるような意見が多い.しかし過去を振り返ると80年代のシリコンバレーは日本企業のパワーに圧倒され,90年代は中国の生産力に危機を感じ,今回はホワイトカラーの仕事のオフショア化に直面している.その中でシリコンバレーの内容も変わっていっているのは確かである.少なくても何かの変化や状況に対応するパワーはあるかと思う.アメリカでは一人の人間が同じ仕事を一生続けるということはほとんどなくなってきており,それが加速化しているのは間違いないと思う.エンジニア達も技術の変化やグローバル化の流れの速いところで仕事と生活を続けているのだと実感する.





トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 


copyright 1997-2004 H. Tony Chin

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コラム目次
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Engineering Life in Silicon Valley 第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
移り気な情報工学 第36回 時代間通信アーキテクチャ
フリーソフトウェア徹底活用講座 第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)

Back Number

フリーソフトウェア徹底活用講座
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

移り気な情報工学
第36回 ITもの作りの原点
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第32回 情報家電のリテラシー
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第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
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第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
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フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
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