第60回

Engineering Life in Silicon Valley

日本でシリコンバレースタートアップを体験する
(第一部)


大手企業で無線通信のエンジニアリング

太田さんとは,HDラボにいるころからさまざまな仕事を一緒にやってきましたね.経歴をざっと振り返ると,日本の大手企業からHDラボへの転職から始まり,スタートアップに出資者として,また取締役として仕事をされました.それから再びシリコンバレー企業にスタートアップのメンバとして活躍されましたね.

 シリコンバレーに限ったことではありませんが,海外のハイテク企業が日本に拠点を作るときは,まず営業が主体の支社を作る例が多いと思います.要するに営業所ですね.その後に技術サポートや日本語化・ローカライゼーションなどを行うための,技術的な拠点に発展するのが一般的な展開です.

 しかし太田さんの場合は,インシリコンで純粋な研究開発拠点としてスタートされているところが珍しいと感じました.そこで今回は,ぜひこの貴重な経験について聞かせてください.まずは,ご自分のキャリアを紹介してください.

デンソーにはフレッシュマンとして,卒業後すぐに入社しました.当時はすべての車にエアコンが標準装備となり,カーエレクトロニクスがはやり始めるところでした.エンジンコントロールはボッシュやベンツだけで,国産製品が立ちあがる時期でした.デンソーという会社は,「車のデータをやり取りするのはワイヤレスだ」と早くから気づいていたので,無線通信ベースのシステム開発にはかなり力を入れていました.それで私は無線通信関係の仕事からはじめました.当時は,国家プロジェクトとしてサインポストと車間を計る路車間通信がありました.レーシングカーのテレメータやGPS・衛星通信などもやりました.

今回のゲストのプロフィール

太田博之(おおた・ひろゆき):(株)デンソーにて長年,通信用ASIC開発に携わる.その後,(株)HDラボ(本社新横浜)で通信用LSI開発の設計コンサルタント,出資者,取締役として活躍する.2000年にはシリコンバレーに本社を置く大手IP(Intellectual Property)ベンダであるインシリコン(InSilicon, Corp.,本社サンノゼ)に移り,名古屋郊外に開発研究拠点を開設する.Bluetooth IPの開発にDirector of Engineeringとして従事.その後,フリーの通信関連技術コンサルタントを経て,現在は電子部品商社の加賀電子で通信関連機器,部品のマーケティング業務に従事.本誌,その他エレクトロニクス系技術雑誌に連載多数.



携帯電話やPHSの設計もやられたのですよね?
はい,アナログ携帯電話からスタートして,PDCディジタル,そしてCDMAの設計もやりました.方式設計からはじめてハードウェアを作るおもしろみがありました.分厚い仕様書があり,それをよく理解し,またそれを実際にハード化するために方式の検討を行ったりする仕事です.自分の作ったASICが多くの製品に使われてたので,その面でも楽しかったですね.

 しかし,CDMAの開発や,第三世代,W-CDMAの基礎設計の研究になる頃には,今までに設計したASICのスケールとまったく違うデバイスになることが想定されていました.それで会社のポリシーとして,社外からすでにできあがったデバイスを買ってハードを設計する予定があったので,ハードウェアエンジニアとして活躍するシナリオが減っていくことを感じました.あったとしても,今までのハードウェアをメンテナンスするような仕事ぐらいしかないと感じていました.


テクロノジの駆け出しのころは,ハードウェアで工夫したり競争しますが,段々とテクノロジが確立されていくと,プラットホームが決まりコンポーネントが流通するので,ファームやソフトでの差別化になりますね.また,コンシューマ製品になると,マーケティングや企画で勝負するとか……たとえばパソコンができたころは,各社はハード面でかなりの工夫ができましたが,チップセットが決まると,純粋にハードのみで各社ごとに差別化するのが段々と難しくなりましたよね.
そうですね,ゼロから作り上げる楽しさを一度味わったので,次をどうするか?と考えはじめました.

 その当時,仕様書の内容を社内や社外で説明したり講義をする仕事を多くやりました.そのためのプレゼンテーションや説明資料の作成もしました.説明したり講演するのは,おもしろいと思いました.エンジニアのある側面として,自分に合った仕事だと感じました.

 この延長にコンサルティングという仕事があるのではないかと思い,それでいっそのこと会社を辞めてエンジニアリング・コンサルタントをしてみようかと考えていたときに,HDラボとの出会いがあったのです.HDラボの設立メンバとは雑誌や講演会で面識がありました.いろいろと話をするうちにとんとん拍子に話が進んで,出資するメンバとして仲間入りしました.それまでデンソーで経験した技術をベースにシステム設計,ワイヤレス関係のコンサルティング,デバイス開発やIP開発プロジェクトをおもに担当しました.


説明するのが好きですか? これは,シリコンバレーエンジニアに向いてますよね.日米貿易摩擦のころに講演で聞いた話なのですが,日米のエンジニアの差をまとめたところ,「アメリカのエンジニアは先生になりたがり,日本のエンジニアは生徒になりたがる.だから日本のエンジニアは,アメリカの良い所だけをどんどん吸収して競争力をつけていくが,アメリカのエンジニアは出すだけで何も吸収しない……」.まあ,ちょっと単純すぎると思うのですが,いわゆる自己主張の差について説明したかったのでしょうね.
おもしろい話ですね.たしかに自己主張がはっきりしていないと,アメリカの企業で勤めるのは難しいですよね.

スタートアップに参加する=消火栓から水を飲む?


一つ目の転職で,スタートアップの出資者プラス取締役ですよね.なかなかたいへんな仕事ではなかったですか?
当時は無我夢中で仕事をしていたため,あまり自覚がありませんでしたが,スタートアップの経営メンバかつ一人のエンジニアとして多くのことを学びました.とくに製品開発とビジネス開発が違うということを痛感しました.

 コンサルティング会社は,さまざまなネタを自分で育ててビジネスを展開する必要があります.私の場合,デバイスやIPを企画しましたが,大きな企業の製品開発のスタイルをそのままもって来ていました.大きな会社だとエンジニアはただ単にそのシステムやデバイス開発に集中するので,技術だけに集中すれば大丈夫です.コスト管理,人事管理や総務はそれらの専門スタッフにまかせておけばいいわけです.

 一方,スタートアップだと,出ていく出費とか入ってくる報酬などのバランス,ようするにコスト感覚が非常にたいせつで,技術職以外の意識が必要とされます.最初はあまり自覚がなかったので,周りの人にはだいぶ負担をかけたと思います(笑).技術者の経験だけで管理職ほか,さまざまな役割を行うわけですからたいへんです.しかし,いろいろな体験を年齢にかかわらずできたので,それが非常に自分のキャリアにプラスになったと思います.


シリコンバレーでは,スタートアップに入るのは「消火栓から水を飲むのと同じ」といいます(笑).とにかく膨大な量の仕事や新しいことをこなさなければなりません.でも逆にそれが面白さの一つですよね.エンジニア以外にマーケティング,企画,営業,経営管理とか違う役割を一気に体験できるわけですから.
消火栓から水を飲む……ですか!アメリカらしいおもしろい表現ですね.消火栓から勢いよく出る大量の水で吹き飛ばされるか,溺れるか? たしかに日本の会社に勤めていると,いろいろなポストを経験するのは無理に近いですよね.とくにコスト意識を身に付けるのは,お金の責任を取る部長くらいの立場にならないとできないのではないでしょうか? 日本ではまだまだ年功序列的な考えがあるので,体験するのは難しいです.

日本で「バーチャルサンノゼオフィス」を開設する


インシリコンに行かれた背景ですが,当時HDラボでBluetoothの開発をスタートされており,グループ丸ごとインシリコンにスカウトされた感じでしたよね? シリコンIPを専門にやっている会社ですから,このほうがIPを世の中に出していくうえでは理想的な環境ですね.
そうですね,IPベンダーとしてはARM,MIPS,Artisan Components,Rambusと並ぶ主要なベンダです.われわれのグループはHDラボの頃から活動を名古屋郊外で行っていたのですが,オフィスや仕事の環境はそのままでした.日本支社の社員ではあるのですが,シリコンバレーの開発部隊の直属のグループでした.もちろん,仕事の内容,進め方,日々のコミュニケーションなどはシリコンバレーの上司や同僚達と頻繁に行いました.インシリコンが私にとっては初めてのシリコンバレーの会社なのですが,これはまれなケースなんですか?

私はシリコンバレーで多くの買収やグループの移籍を見てきていますが,通常は開発グループを早く会社本体に組み込むため……インテグレーションと呼ばれていますが,場所を移転する方向で動くのが定石です.そういう意味でまれですね.

 冒頭でも少し説明しましたが,シリコンバレーの会社が日本に拠点を築くことは頻繁にありますが,首都圏以外でそのままのケースはまれです.多くの場合,首都圏にすでに存在する営業グループなどと合流するためにオフィスを強制的に移転します.もっとすごい話で「シリコンバレーに引越し」ということもあります.

 太田さんのケースは,逆に首都圏ではないのでコスト面での効率が良く,そのままで開発を続けようと判断されたのかもしれません.また,無線通信関係のエンジニアはシリコンバレーでもなかなか探すのが難しいので,優遇したのだと思います.シリコンバレーはやっぱりコンピューティングを中心としたエンジニアが多いので,RFや無線関係のエンジニアは少ないですよね.

なるほどね.それでわれわれの小さなグループは――一応全員日本支社の社員なのですが――レポーティングラインが本社のサンノゼという設定でした.日本人のマーケティング・営業系の社員が東京にいるのですが,日々の仕事ではまったく関係がなく,しかもいきなり外資系で上司もシリコンバレーにいるわけですから,とまどいがありましたね.トニーさんが移転のときに言ってくれた,「バーチャルサンノゼオフィスになるのだ」が非常に印象深いし,後々ためになりましたね.

次回について:


 次回は,シリコンバレーにいるエンジニア達と実際の仕事の進め方やコミュニケーション方法の工夫など,具体的なマネージメント方法論など興味深い話を予定している.




トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk
Consulting

 


copyright 1997-2002 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
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第59回  IT先進国フィンランドの計画性
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第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
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第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
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第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
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第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
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フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
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第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
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フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
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第68回 読書案内(2)
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第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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