第27回
ITも歴史を学ぶ時代

 大学教官の多くは,「最近の学生は勉強しない,昔の学生はこうではなかった」と思っているはずである.この認識は,過去の歴史を振り返っても正しいものだろう.また,今そう考えている先生たちも,自分たちの学生時代には先代の先生から同じように,「最近の学生はなってない」と思われていたに違いない.歴史は繰り返しているにすぎないのである.

 しかし,学生のほうにもいいたいことはたくさんあるはずである.たとえば,IT系学部の講義に出てくるキーワードの数となると,ここ10年で倍増どころではないほど急増している.10年前には,今では当たり前になったインターネットなどはまだ少数の人たちだけが知る研究テーマだったし,DVDだって存在していなかった.したがって,最近のIT系学部の学生たちにとって,オームの法則から学習が始まるところは昔と同じであるのに,同じ4年間で詰め込まれる内容は大幅に増えているのである.

 教える先生たちの知識は,同じ分野で10年,20年と積み重ねているわけだから,そういった先生たちと同じレベルの知識を未経験の学生たちに求めることは根本的に無理があるのだろうか?

愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ

 「生物の個体発生は系統発生を繰り返す」というのが,ヘッケルの反復説である.人間は,胎児の期間に進化の記録を個体のレベルで再現しているというのである.つまり,個体の発生過程において,その種に至る進化の過程で経験した過去の形,たとえば魚類時代の鰓などを備えている期間があるというものである.

 この説は,生物学の分野ではかなり古い説であって現在では否定されているらしいが,系統進化の歴史を固体が学んでいるという説は社会学的な解釈として意味があるように思う.「愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの残した言葉があるが,進化のプロセスで生き残ったものが賢者とするならば,それは幼い時期に歴史を学んでいるからだという見方もできる.

 IT分野でも,個体発生が系統発生を繰り返している例がある.OSの立ち上がりプロセスがそれである.UNIXにしろ,Windowsにしろ,ブート画面を見ていると,瞬間的に歴史の断片を垣間見ることができる.OSは,ブートの過程で歴史をフラッシュバックしながら立ち上がっているのである.だからといって,立ち上がり時間がいっこうに早くならないことが許されるわけではないのだが.

 巨大なソフトウェアは,それを開発するための高度なソフト開発環境があって初めて実現できるわけだが,その開発環境はどのような環境で作られたかといえば,当然現在の開発環境よりも古い環境で作られていたはずである.これをブートストラップという.CコンパイラのソースコードがC言語で書かれているというのは,ブートストラップの典型である.最初のCコンパイラはどのようにして作られたのかと考えはじめると眠れなくなるのだが,それはもっと単純なCコンパイラをC以外の言語で作ったということなのである.これも歴史の一つである.

歴史が忘れられてしまうと何が起こるか

 最近の電子機器は,箱を開けて中を見てみると,どれも同じであるような印象を受ける.すなわち,1,2個のASICと液晶パネルとスイッチでできているのである.かつては個別部品で作られていたラジオですら,最近の製品ではソフトウェア化されている.ハードウェアは共通化して量産でコストを下げ,ソフトウェアで機能を作ったほうが,多少装置が複雑になってもトータルのコストが安くなるというのである.

 そこで気になるのは,その共通ハードウェアはいったい誰によって作られるのかということである.共通にするわけだから,きわめて少数の人間だけがその設計に関われば十分である.その結果,その人たちの中だけに技術が閉じ込められることになり,世代交代すると技術ごと忘れさられてしまうのではないかと心配になってしまう.

 技術が高度化するにつれて,個々の人間が管理できる範囲は狭まってしまうのはしかたがないと思う.しかし,エンジニアがマクロ的にシステム全体を把握できなければ,でき上がったシステムはなんとも危なっかしいものになってしまうのである.つい最近,某巨大銀行の合併にともなってオンラインシステムの統合過程で大事故が起こったが,合併する各銀行のシステム開発に関わる歴史的経緯を忘れて無理に統合しようとしたために起こったトラブルなのではないかと思う.

歴史を知らない世代がやってくる

 1970年代以前に生まれた人たちは,幸運にもパソコンや携帯電話が作られていく,あるいは作る過程を見て育った世代である.つまり,IT発達の歴史の目撃者である.ところが,現在の大学生は,生まれたときにはすでにゲーム機が存在し,中学生のときにはパソコンがあり,高校生のときには携帯電話があったのである.したがって,彼らにとってたいていのIT機器は存在して当然のものであり,その存在に何の疑問も感じていないに違いない.しかし,疑問を感じなければ次世代への飛躍も生まれない.

 そこで,21世紀に入ったことでもあるし,新しいIT学部のカリキュラムに「IT技術史」という科目を作って必修にしてはどうかと真剣に考えている.今ならまだ,歴史の証人が生きているので,正しい歴史を書けるはずである.

やまもと・つよし 北海道大学大学院工学研究科
電子情報工学専攻
計算機情報通信工学講座 超集積計算システム工学分野


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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
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第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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