第93回

Engineering Life in Silicon Valley

「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる


☆ 笑えないけれどだれでも貢献している?!
  −だれでも参加できたシリコン・バレー


 その昔,筆者が大学生のころに,半導体製造プロセス技術の授業で教授から聞いた話だ.

 『MOSのプロセスが立ち上がり始めたころ,シリコン・バレーの有名な会社で起こったことだ.半導体ファブの歩留まりが急に悪化した.プロセス・エンジニアが原因解明に当たったがなかなか問題点が見つからない.わかったのは,ラインの人員に変化があったことだ.そして,レギュラの中年女性が休暇に出てから歩留まりが急に悪化したことを突き止めた.そこで,この女性の旅先であるメキシコの実家に連絡し,戻って来てもらった.ちょっとびっくりした顔のおばさんは,皆の立ち会いの前で作業を再開し,ラインはまた動いた.何もとくに変わったことをしているようには見えない….しかし,歩留まりは正常に戻ったのだ.

 原因を突き止められないプロセス・エンジニア達は不思議でしょうがなかった.しかし,その日の終わりに原因がわかった.このおばさんは,自分のシフトが終わると機材を整理していたが,棚の中からプラスチックのスプレー・ボトルを取り出し,霧吹きを使いながらごしごし機材を拭いていた.慌ててプロセス・エンジニアがその霧吹きのことを尋ねると,「工場で規定された洗浄剤だけではきれいになった気がせず,家から持ってきたクリーナを使ったんです」.びっくりしたエンジニアは,プロセス・ラインの汚染の問題云々の説教をする前に,シリコン・バレー中のホームセンタなどをすべて回り,この家庭用洗剤を買い占めた.売り切れては困るからだ.後からじっくりとこの洗剤の成分を実験室で調べたそうだ』.

 微細化が進み,ほとんどロボット化された現在の半導体プロセスでは考えられないことだが,まだまだ微細化が進んでない当時ではありそうな話だ.教授の言いたかったことは,半導体プロセスは想定外のことでも影響を受けるので,エンジニアはさまざまなアングルから問題を解析せよ…ということだった.


☆ ちょっと前までは現場からのたたき上げが多かった


 ちょっと昔のシリコン・バレーには,「工員」は移民の人たちが多かった.筆者が学生のころ,半導体メーカにインターンで来たときには,まだまだファブはこのような手先の器用なメキシコ人やフィリピン人のおばさんの工員を雇っていた.インターンのころにいちばん初めに不良品の半導体ウェハの解析に顕微鏡を覗いてプローブを当てる作業を教えてくれたのもフィリピン人のおばさんのマーシーさんだった.よくしゃべる人で,お孫さんがいるだの,ストック・オプションで儲かった話などを仕事の合間に聞いた.同じセクションの若手エンジニアに聞いたところ,このマーシーさんは会社設立のころからファブで働いていて,工場ラインについてはエンジニアよりも詳しいこともあるので,よく教えてもらうと良いとのことだった.

 現在のシリコン・バレーに自社用工場を地元にもっている会社は皆無に近く,インテルが研究用にもっているくらいだろうか.今のシリコン・バレーではマーシーさんのような人が勤めているところはもうないだろう.90年代初期のころから製造はシリコン・バレーの外へ出始め,ファブレス化・半導体製造の分業化が今では当たり前だ.ボード製造や組み立ても同じで,ちょっとした試作品やボードの製造や組み立ても引き受けてくれる会社がシリコン・バレー内に多くあったが,今ではシリコン・バレーの外で,とくにアメリカ国外が当たり前だろう.70年代〜80年代後半ぐらいまでは,こういう製造やラインで働く人達がたたき上げ式で製造ラインの課長になったりすることが多く,稀なストーリでもなかった.ソフトウェアの業界でも,とくに学歴はないが,データ・センタの入力係やシステム設備管理からたたき上げでエンジニアになったという人も多数いた.CADのオペレータからIC設計者になった人も多い.営業やマーケティングでも,たたき上げという例が多数ある.

 アップル・コンピュータの初期のエンジニア達もしっかりした学歴をもつ者が少なかった.こういうストーリがある意味伝説化し,シリコン・バレーの魅力を作っていったのだと思う.


☆ そしてネット中心になったシリコン・バレーでは
学歴優先の会社が出現した


 しかし,この数年で加速したグローバル化により,製造業,組み立て工程や量産ラインは徐々にシリコン・バレーから去っていった.90年代後半から2001年のインターネット・バブルになっても,とくに学歴や経験がない人でもネット関係の起業に参加できるような時期があった.本当に初期のころで,ペット・フードや生鮮食品をネットで販売したり,場合によっては配達スタッフや電話番がたくさん必要だったし,ポータルでは人間がカテゴリを決めたりと人海戦術で対応していた.したがって,学歴や経験を問わなかったのかもしれない.

 ネット・バブル絶好調の時期には,地元のファスト・フードやレストランで働く人が足りない状況が一時期あった.多くがネット企業に勤めはじめていたからだ.「だれでも参加できるシリコン・バレー」がもっともっと拡大するような雰囲気だった.半導体やコンピュータからネット中心に移行したニュー・エコノミーでも学歴のない人たちがたたき上げでのし上がっていくのかと思いつつ,バブルは弾けた.この間,グローバル化はさらに加速化して,コスト削減のため,製造業以外にサービス業もアメリカ国外へ出る流れができた.

 最近ではだれもがGoogleがシリコン・バレーを代表する新しい企業だという.株価も上昇しているし,勢いもある.とにかく話題に欠けない会社だ.もう一つ特徴があり,高学歴でないと雇ってもらえないことでも有名だ.似たような会社では4年制の工学部卒の学士か修士を持っていればOKであるが,Googleはあえて博士号を要求する.また,ビジネス系のポジションでも最低MBAを必要とするケースが多い.徹底して高学歴をポリシとする会社のようだ.

 Googleとよく比較されるもう一つのシリコン・バレー発のネット企業,Yahoo!と比較するとよくわかる.Yahoo! がメディア企業をめざしており,技術力はそれの手段や道具の一つとして捉えていることと対照的に,Googleはすべてを技術力で解決することをポリシとしていて,新しい技術にこだわり技術力にこだわる.たとえば,ニュースも人手を通さず供給するのが当たり前としている.一方のYahoo!はメディア会社として監修や編集を行うことに価値があるとする.Googleは技術力にこだわり,そこから出た雇用のポリシが高学歴だったようだ.元々シリコン・バレーには現場主義のような風土があるから,多少は突出したポリシかもしれない.今後,Googleのようなポリシの会社がシリコン・バレーの主流になれば,学歴や経験のない人たちが参加できなくなり,「だれでも参加できるシリコン・バレー」ではなくなり,おもしろくないようにも見える.

 グローバル化が進んだ今では,本社機能だけシリコン・バレーに残し,企画・仕様を決めて実際の設計,実装,プログラミングなどはすべてアメリカ国外で行うという会社が当たり前のようになってきた.または海外のパートナ企業と協力するのが当たり前になってきた.複雑な製品を一社だけで作るのは無理な時代になってきたからだろうか.

 ソフトウェア・ツールの会社で本社は20名ぐらい,そのうちの5名程が仕様やコンセプトを考え出すエンジニアで,インドのエンジニアリング部隊の100名が実際のコーディングにあたっているということが当たり前になってきた.エンジニアリングやモノ作りをしなければ,本当にシリコン・バレーで何が残り,何を特徴としていくかが大きく疑問視されつつある.ただシリコン・バレーの活力でもある,「だれでも参加できるシリコン・バレー」という間口の広いところは残って欲しいと思う.


Column ------------------------------------
シリコンバレーの将来を揺るがす
政策ポリシ

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 2005年にアメリカを襲った大型ハリケーン,「カトリーナ」と「リタ」,そして「ウィルマ」.被害の衝撃的な映像は読者もテレビなどで見たかと思う.

 シリコン・バレーのあるカルフォルニア州では天災と言えば地震なので,改めて天災の怖さを認識するきっかけになった.もっとも,ハリケーンの影響によるエネルギの高騰が大きな問題として取り上げられた.シリコン・バレーでは,30分以上自動車通勤する人は当たり前で,少しでも大きい住宅を求めて2時間近くマイカー通勤する人も少なくない.いずれもガソリン代の高騰は懐を直撃する.つい最近まで,皆が好んで運転するSUVやミニバンの代わりに皆慌てるようにハイブリッド車に切り替えようとしている.とくにトヨタ自動車のプリウスは品薄状態が続いている.2000年には電力不足で日中の停電が相次いで起こったが,改めてアメリカ全体のエネルギ政策がなっていないことを象徴したニュースとなり,自動車以外での移動がなかなか難しいシリコン・バレーでは深刻な問題になりかねない.したがって,多く議論されている.

 シリコン・バレーの政策ポリシについて研究するNPO,Silicon Valley Leadership Groupが2005年秋に発表したアメリカ各地のハイテク都市のランキングというものがある.主要都市を失業率,中学校までの学力テストの結果,税率,交通機関の利便性,住宅の価格など,生活面に関する指数からランキングを割り出したそうだ.この結果によると,シリコン・バレーが総合ランキングで最下位になった.すべての面で指数が高かったのがリサーチトライアングル(ノースカロライナ州)で住宅面,交通機関面,学校の質でポイントが高かったそうだ.

 オフィス街は空き部屋があるが,安価な住宅は供給できていない.税率ではボストンが最悪であるが,2位はシリコン・バレーとサンディエゴだ.やはりカリフォルニアは税率が高い.

 シリコン・バレーで仕事をもつ住人たちが薄々気がついていたこと…起業や新しい会社が生まれる環境には優れているけれど,とても住みにくいということが改めて鮮明になった.住宅が高価なことや高速道路の渋滞がひどいなどは,地域に足かせを掛けるようなもので徐々にシリコン・バレーの体力を消耗していくと警告している.前述のハリケーンによるガソリン代高騰を交通渋滞問題に加えると改めて活力のダウンにつながることが見えてくる.

 このレポートを楽観的に見るか悲観的に見るか,意見は大きくわかれている.楽観的に見る人は,シリコン・バレーの技術力や新しいテクノロジで交通機関の向上は見込めるし,公共交通機関を中心とした住宅作り,研究開発を主体とした税の優遇で地域は持ち直すと言う.悲観的に見る人達はこれらが過去20年以上議論されてきた課題で,見立たった変化はないし,元々カリフォルニア州の政治は農業や観光を優先する傾向があると指摘する.

 政治や行政の政策にそれほど興味のなかったシリコン・バレーでも今後はもっと踏み込まなければならないことを示しているようだ.






トニー・チン
htchin@attglobal.net
WinHawk Consulting

 


copyright 1997-2006 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
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第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
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第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
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第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
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第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
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