第61回
海を渡って卵を産む北京の「海亀族」

 本誌の目次ページが日本語,英語,そして中国語と三ヵ国語対応になっていることに気が付いた.それだけ中国語文化圏にIT分野の技術情報を求めるエンジニアが多いということがうかがえる.

 ニュースでは加工食品に関する話題ばかりが目立っているが,IT分野も見えないところで外国人技術者に依存しているのである.先進国の大学がアジア地域からの大学院留学生誘致に積極的なこともあり,海を越えた人材流通が増加することが予想されるのだが,日本や北米で学位を取得した博士たちはその後どうなるのだろうか.日本では「高学歴フリータ」なる新語ができてしまったように,学位を取得してもそれにふさわしい教育・研究職が不足して社会問題化している.これまでも大量に留学生を送り出してきた中国では,そんな問題は起こらないのだろうか.

創業支援施設の壁画の意味

 今年(2008年)1月に北京に行った際,北京在住の知人の紹介で北京市内のビジネス・インキュベーション施設やベンチャ企業を訪問する機会があった.その訪問先の一つが,望京にある「望京科技園創業服務中心」,訳せば「望京サイエンス・パーク・ビジネス・インキュベーション・センタ」となる施設だ.場所は北京市北西部の朝陽区,北京大学と電子商店街として有名な中関村にも近い所である.今年はここの近くでオリンピックが開催される.望京科技園創業服務中心は,海外留学者が帰国後にビジネスを立ち上げることを支援する目的で設立された.玄関ロビーの壁面には60社を超える入居企業一覧が飾られていて,帰国者たちの起業ブームがうかがえる.

 そこのエレベータ・ホールで目を引いたのが壁一面の大海原の壁画だった.ここは大陸である中国なので,海をモチーフにした絵というのは珍しいという.お決まりの説明によると,「この絵には海外から海を渡って帰ってきた人がここで起業するということをイメージしている」のだという.そして帰国起業家は海を渡ってきて卵ベンチャー企業を産むという意味で「海亀族」と呼ばれるという.

海亀族の孵化(うか)支援

日本の大学に留学していて,帰国してからはここに本社を構えている.彼の会社の向かいのオフィスは電気も消えていて人の気配がないのだが,聞けば日本から技術開発案件を請け負っていて,全社員が日本へ出向中だという.海亀たちは留学先から単に技術だけを持ち帰るのではなく,留学時代の付き合いもビジネス資源として使っているらしい.

貪欲な中国の海亀たち

 そこで何社かのプレゼンがあって,日本の大学で博士の学位を取って帰国した青年社長が熱心に事業を説明してくれた.残念ながら,内容はよく見かけるマルチメディア端末の製品開発でそんなに驚くものには見えなかった.

 しかしここで気付いたのだが,博士の学位を取った人であるにもかかわらず,「自分の学位を取った研究を事業化したい」ということではないようである.小平は「白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫が良い猫だ」と言ったが,学位は自分の能力の証明であって,それで何をしても結局は「もうかる仕事がいい仕事」と割り切れるのが海亀族の強さかもしれない.

 一方,日本の学生を見ていると,高学歴になればなるほど自分の研究分野や専門領域にこだわる人が多くなるのである.専門から外れたことをすることを嫌うがゆえに,仕事や人生の可能性を狭めているというのが高学歴フリータの原因のようにも見える.

 そんな海亀の一人と食事をしながら話をしていて,面白い発見があった.中国語と日本語が混じった会話の中で,海亀氏が私に「ちんぷんかんぷん」の語源を知ってますか?と聞いてきた.会話でよく使うフレーズだが,なぜちんぷんかんぷんなのかは考えたこともなかった.彼いわく,「聴不憧,看不憧」という中国語の言い方があって,発音はティン・ブ・トン,カン・ブ・トンのような感じになる.意味は「聴いても分からない,見ても分からない」.なるほど,ちんぷんかんぷんである.

やまもと・つよし

北海道大学大学院 情報科学研究科

メディアネットワーク専攻

情報メディア学講座


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コラム目次
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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第11回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
第61回 ドリームウェア
第60回 再び人月の神話
第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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