第31回

〜法律の話〜


 最近,インターネットを使った書籍や音楽CD,DVDなどの販売で有名になったAmazon.comが,ニュースで大きく取り上げられた.その内容は,Amazon.comが,ライバル会社であるBarnes&Nobleを特許侵害で訴えたというものだ.その特許の内容というのが,登録済みユーザーに対してマウス1回のクリックで注文が取れるということらしく,多くのシリコンバレーのエンジニアやハイテク関係者がAmazon.comに対してブーイングを放った.特許らしい特許でないというのが多くの人々の考え方であり,自由競争を美徳とするシリコンバレーの人々にとって許せないことだからというのが理由だ.Amazon.comに抗議するウェブサイトも立ち上げられている.

 インターネットのビジネスがDog Year(犬の歳)であると揶揄されるように,展開が迅速でアイデアだけでなんとかしようというビジネスが多く立ち上がり,法律を何とかして使って起業を軌道に乗せようとしているエンジニア達も増えている.そういう状況から,シリコンバレーのエンジニア達は,法律をよく理解せずに利用しようとすると,とんでもないことになるケースがある.今回は,エンジニアが日々遭遇しやすい法律の問題について考えてみたい.


訴訟社会アメリカ


 さまざまなケースを見ていく前に,アメリカの法務状況について簡単におさらいをしてみたい.アメリカは「訴訟王国」と揶揄されるほど訴訟が多い.また,法務がかなり専門化されていて,一般契約関係,特許関係,移民・入国関係,税法関係などに分かれており,そのつど専門家を使うというケースが多い.

 要するに医師と同じである.たまに,その道のスペシャリストでない弁護士に頼んでトラブルにあったという話はよく耳にする.しかし多くの場合は,出来合いの書類やお決まりの契約書のフォーマットがあるので,それを利用することが多い. また,個人でいちいち専門家をそろえることは難しいので,アメリカ人ならある程度の契約書や法的書類には慣れる必要がある.英文の法的書類だが,年々一般的な英語による表現に近くなっていて,英語がネイティブでない人達でも理解できるようになってきた.ただし,専門用語がまだ若干多く使われていたり,通常とは少し違う意味で使われている部分もある.


アイデアを守る三つのポイント


 ハイテク関係だと,エンジニア達はまず,新しいアイデアを競合から守るという考えが思い浮かぶが,法律・権利関係では三つのポイントがある.

 まず,特許(パテント:Patent)だが,これは明らかに“発明”を保護することになる.一般的に,新しい方法や仕組みが発明の対象となる.最近では,アルゴリズムがどこまでこの対象になるか議論されていると聞く注1 .シリコンバレーのある会社では,エンジニア全員に「パテントノート」という綴じた特別なノートを与えて仕事内容のすべてを書き残させたり,定期的に特許スペシャリストによる講習会への参加が義務づけられている.国際的にも特許適用の方法や定義が異なるので,特許専門のスペシャリストの世話にならないとどうにもならないケースが多い.前述のAmazon.comも,特許申請中に競合に対して起こした訴訟らしい.厳密に発明を確保するより,最近は競合の商売を邪魔できる程度に使えれば十分という乱暴な考えが多いようだ.

 次にコピーライト(Copyright)だが,特許より格段に登録しやすいという利点がある.ソフトウェア,半導体製造マスク,回路図,マイクロコードなどがこれにより保護されるケースが多い.登録しやすい反面,“Clean Room Design”という,まったくオリジナルに関係する資料なしの環境で同じ機能や記述を作り上げたということが立証できればコピー製品はできてしまうし,合法とされる.これは半導体製造のクリーンルームから来た言葉である.特許の場合には,この“Clean Room Design”を用いても回避できない.

 最後にトレードシークレット,いわゆる企業秘密がある.企業の内部的資料や外部で存在しないものが該当する.人の流動が多いシリコンバレーでは,ここに大きな注意が払われる.比較的大きな枠なので,さまざまな情報がこの中に入ってしまう.極端な例だが,“Clean Room Design”で類似品を作っている会社Aがあると,どんなに欲しくてもこのオリジナルの製品を作っている会社Bの社員を雇わない.B社からトレードシークレット侵害で即座に訴えられるからだ.ごく些細な情報,たとえば社内の内線番号が書かれたリストを退社後もうっかりもっているだけで,トレードシークレット侵害になりかねない.


注1:ハイテクノロジ周辺を熟知した弁護士や法律関係者がまだまだ少ないので,判断基準などの立法が遅れている.

社員になるまで
──
ちょっとした落とし穴?


 就職や労働について,こちらでも日本に負けないほど多くの取り決めがある.入社する際に多くの書類にサインすることになるが,けっこうシビアなものがいくつかある.まず,Job Applicant Weaverというお決まりのフォームが多く使われているが,これは入社を希望している人が雇用側に提示した履歴書の内容や面接での内容が偽りであった場合,即退社してもらうという文面になっていることが多い.

 すぐトラブルの種にはならないが,雇用側に対してかなり一方的に力を与える書類であることには違いない.次に,Employment Agreementという入社に関する事項を記す書類がある.一般的には,いつからスタートしてもらうか,勤務地はどこであるかとか,給料の振り込みは何回だとか,入社に際して必要な情報が明記されている書類である.しかし,多くのEmployment Agreementには,“…社則にしたがいます…”という一見どうということもないような1行が加わっている.

 ここに落とし穴があり,多くの場合,肝心の社則を見せてもらわないでサインをしてしまう場合が多い.現実にはかなり分厚い書類で,一般的に目を通す暇もないシロモノが多い.この中に会社以外の仕事,副業や退社後について書かれている場合が多い.


おそるべきAnti-Moonlightingと
Non-Compete


 副業することを俗にMoonlightingと呼ぶが,これを完全に禁じている社則がほとんどだ.Anti-Moonlightingと呼ばれている.ほとんどの会社がAnti-Moonlightingについて社則で示している.一般に,シリコンバレーのエンジニア達は会社勤めをしながら夜や休日に次のベンチャーについて考えているというイメージがあるが,これは企業側からしたらとんでもないことになる.

 アイデアを起こしたりするなら,厳しく会社のリソースや時間を使わないようにすることが大切だ.前述の“Clean Room Design”に近い考え方が肝要である.仲間達とアイデアと練ったりする場合は,絶対に会社のメール・電話を使わないとか,会う時間を就業時間以外にとるとか,会う場所も個人宅にするなど,さまざまな注意を払う必要がある.

 最近は,退社した後にAnti-Moonlightingでやられる場合が多くなっているそうだ.たとえばこういうケースらしい. 円満退社後,起業することになる.そのベンチャーが軌道に乗ってきて大成功する,以前の勤め先の仲間達がたくさん入社したりする.そうして以前就職していた会社が訴えて金になるとふめば,Anti-Moonlightingをタテに訴訟を起こそうとするらしい.

 Anti-Moonlightingに関係する書類で,Non-Competeという退社直前にサインを要求される書類がある.これは,退社後類似の製品を作ったり競合になったりはしません,という内容に承諾するものである.法廷側は,このNon-CompeteやAnti-Moonligh
tingが自由競争を束縛するものだとしてあまり良い顔をしない傾向にある.適用・行使されるかどうかは別として企業・雇用側としては,なんとかして自社の利権を守ろうとしているわけである.神経質になりすぎる必要はないが,常識的に会社のリソースが何であるかをしっかり頭に入れておけば問題は起こらないと思う.

*          *

 ハードウェア寄りの企業より,ソフトウェアやインターネット関連の企業が多くなった現在のシリコンバレーでは,ちょっと以前のハードウェアの設計で徹底的に差別化するよりもアイデア重視になりつつある.その中で法的なルールをうまく用いて市場に先乗りしたり,競合に遅れをとらせる(競合の足を引っ張る?!)ようなことができればよいといった,アイデアを紙上でまず戦わせるような土俵になってきたのかもしれない.そういう意味で,エンジニア達の法務に対する理解や興味は高くなりつつある.


フリーエンジニアの世界

 インターネット関連企業のおかげで,さまざまな就職体系が確立されつつある.正確な統計はないそうだが,シリコンバレーで働く労働者の約20%がフリーランス(Free-Lance)であり,就職をしないフリーターのたぐいだという.アメリカ全体では約5%という数字だから,かなり高い.内容は,回路設計,システム管理,プログラマ,テクニカルライター,法務専門,営業コンサルタントとさまざまだ.

 企業に属せず自分でSocial Security(アメリカの国民年金)を払い,自分で健康保険に入ることになる.もちろん,ストックオプションなどは,一般社員のようには与えられない.プロジェクトや時給の単位で給料をもらっている人達がほとんどだ.下請け的というより,助っ人に近いイメージだろうか? 筆者の知り合いで,会社を数社受け持っており,新製品のリリース前に検証作業だけを専門に手伝っているエンジニアがいる.希望で退社したあと,前に勤めていた会社の顧客が彼の後任を嫌がり,結果として彼が以前やっていた仕事をそのまま引き継いだらしく,最初は次の転職先が決まるまでと考えていたそうだが,かれこれ6年目になるそうだ.

 また最近は,学生で起業したり,バイト先の仕事がどんどん多くなり,学位を取る前にFree-Lanceになってしまう理工系学生が後を絶たないらしい.就職してストックオプションをもらうより「現金商売」だし,時間的にも自由になるので,それらを求めているエンジニアがフリーエンジニアになるようだ.何の保証もない今後の企業における新しいエンジニアの姿かもしれない.


copyright 1997-2001 H. Tony Chin

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移り気な情報工学 第62回 地震をきっかけにリアルタイム・システム再考

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移り気な情報工学
第62回  地震をきっかけにリアルタイム・システム再考
第61回  海を渡って卵を産む北京の「海亀族」
第60回  超遠距離通信とソフトウェア無線
第59回  IT先進国フィンランドの計画性
第58回  物理的に正しいITの環境対応
第57回  年金,e-チケットに見るディジタル時代の情報原本
第56回  「着るコンピュータ」から「進化した布地」へ
第55回  技術を楽しむネットの文化
第54回  情報爆発2.0
第53回  プログラミングの現場感覚
第52回  GPS+LBS(Location Based Service)がおもしろい
第51回  技術の格差社会
第50回  フィンランドに見る,高齢化社会を支える技術
第49回  たかが技術倫理,されど技術倫理
第48回  若者の理科離れ,2007年問題から「浮遊」せよ
第47回  機械のためのWWW――Google Maps APIから考える
第46回 網羅と完備で考えるユビキタスの視点 ―― u-Japan構想
第45回 青年よ,ITを志してくれ
第44回 Looking Glassに見るデスクトップの次世代化
第43回 CMSはブログに終わらない
第42回 二つの2010年問題
第41回 持続型技術――サスティナブル・テクノロジ
第40回 ICカード付き携帯電話が作る新しい文化
第39回 ユーザビリティの視点
第38回 性善説と性悪説で考えるRFID
第37回 時代間通信アーキテクチャ
第36回 ITもの作りの原点
第35回 ビットの化石
第34回 ユビキタスなエネルギー
第33回 ロゼッタストーンとWWW
第32回 情報家電のリテラシー
第31回 草の根グリッドの心理学
第30回 自分自身を語るオブジェクト指向「物」
第29回 電子キットから始まるエレクトロニクス
第28回 映画に見る,できそうでできないIT
第27回 ITも歴史を学ぶ時代
第26回 1テラバイトで作る完全なる記憶
第25回 日本はそんなにIT環境の悪い国なのか
第24回 10年後にも生きている技術の法則
第23回 ITなギズモ
第22回 ブロードバンドネットワークに関する三つの質問

Engineering Life in Silicon Valley
第93回 「だれでも参加できるシリコン・バレー」はどうなる
第92回 チャレンジするためにシリコン・バレーへ 対談編
第91回 テクノロジと教育学の融合
第90回 日本でシリコン・バレーを伝える活動
第89回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第二部)
第88回 営業からベンチャ企業設立までの道のり(第一部)
第87回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第三部
第86回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第二部
第85回 エンジニアを相手にビジネスを展開するプロ第一部
第84回 出会いには不向きのシリコンバレー
第83回 めざせIPO!
第82回 シリコンバレーでの人脈作り
第81回 フリー・エンジニアという仕事(第三部)
第80回 フリー・エンジニアという仕事(第二部)
第79回 フリー・エンジニアという仕事(第一部)
第78回 インドに流れ出るシリコンバレーエンジニアの仕事
第77回 エンジニア達の健康管理・健康への努力(第二部)
第76回 エンジニア達の健康管理・なぜエンジニア達は太る?(第一部)
第75回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第二部)
第74回 ユーザーインターフェースのスペシャリスト(第一部)
第73回 放浪の旅を経てエンジニアに……
第72回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第二部)
第71回 凄腕女性エンジニアリングマネージャ(第一部)
第70回 ビジネススキルを修行しながらエンジニアを続ける
第69回 専門分野の第一線で活躍するエンジニア
第68回 シリコンバレーに夫婦で出向(第二部)
第67回 シリコンバレーに夫婦で出向(第一部)
第66回 目に見えないシリコンバレーの成功要因
第65回 起業・独立のステップ
第64回 インターネットバブルの前と後の比較
第63回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第四部)
第62回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第三部)
第61回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第二部)
第60回 日本でシリコンバレースタートアップを体験する(第一部)

電脳事情にし・ひがし
第14回 韓国インターネット社会の光と陰

第13回 ドイツのソフトウェア産業とヨーロッパ気質〜優秀なソフトウェア技術者は現代のマイスター
第12回 開発現場から見た,最新ロシアВоронежのソフトウェア開発事情
第11回 新しい組み込みチップはCaliforniaから ―― SuperHやPowerPCは駆逐されるか ――
第10回  昔懐かしい秋葉原の雰囲気 ── 取り壊し予定の台北の電脳街 ──
第9回 あえて台湾で製造するPCサーバ――新漢電脳製青龍刀の切れ味
第8回 日本がだめなら国外があるか――台湾で中小企業を経営する人
第7回 ベトナムとタイのコンピュータ事情
第6回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜インターネット通信〜
第5回 ヨーロッパ/ポルトガルのエンジニア事情〜ポルトガルのプチ秋葉原でハードウェア作り〜
第4回 ヨーロッパ/ポルトガルでのエンジニア事情〜市場と就職編〜
第3回 タイ王国でハードウェア設計・開発会社を立ち上げる
第2回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(下)
第1回 国内外に見る研究学園都市とハイテク産業の集中化…中国編(上)

フリーソフトウェア徹底活用講座
第24回 Intel386およびAMD x86-64オプション
第23回 これまでの補足とIntel386およびAMD x86-64オプション
第22回 静的単一代入形式による最適化
第21回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その9)
第20回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その8)
第19回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その7)
第18回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その6)
第17回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その5)
第16回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その4)
第15回 GCCにおけるマルチスレッドへの対応
第14回 GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証(その3)
第13回 続々・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
第12回 続・GCC2.95から追加変更のあったオプションの補足と検証
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第10回 続・C99規格についての説明と検証
第9回 C99規格についての説明と検証
第8回 C言語におけるGCCの拡張機能(3)
第7回 C言語におけるGCCの拡張機能(2)
第6回 GCCのインストールとC言語におけるGCCの拡張機能
第5回 続・C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第4回 C言語をコンパイルする際に指定するオプション
第3回 GCCのC言語最適化以外のオプション
第2回 GCCの最適化オプション ――Cとアセンブラの比較
第1回 GCCの最適化オプション

フジワラヒロタツの現場検証
第72回 現場検証,最後の挨拶
第71回 マイブーム
第70回 OSぼやき放談
第69回 技術者生存戦略
第68回 読書案内(2)
第67回 周期
第66回 歳を重ねるということ
第65回 雑誌いろいろ
第64回 となりの芝生は
第63回 夏休み
第62回 雑用三昧
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第59回 300回目の昔語り
第58回 温泉紀行
第57回 人材ジャンク
第56回 知らない強さ
第55回 プレゼン現場にて


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